エッセイ8「タマとオクタマその2」4
山城萱葺屋根工事(現山城萱葺株式会社)として、初めての杉皮葺きの屋根に対面することになった。
今回は、谷側の北面の西側およそ3分の1を葺き替える予定である。
私たちは毎年ヨシを刈り、茅としてのヨシの利用を通じて、ヨシ場を維持している。
関西、関東に関わらず、棟を収めるときに杉皮を使うことがあるものの杉皮を葺くという経験もない。
そして何よりも杉皮自体、私たちはあるときは京都府中部の京北町の森林組合から、またあるときは三重県津市の森林組合などから杉皮を、時価にあわせて購入している。
だから、ヨシに比べて、杉皮で仮にかんづくり荘を葺き替えると膨大な見積もりになってしまう。
結局、施主であるかんづくり荘のオーナー夫妻は思案の結果、ヨシで葺き替えることを決意された。
冷や汗をかきながら、はしごをゆっくりのぼり、まず屋根の状態をみようと地面から12mまで上がっていくと、まわりをみるとふと気がついた。
およそ視界に入る木という木がすべて杉なのである。
地面から12m登っても、目の前の杉はまだ幹の部位で、見上げるとはるか20mから25mくらいまで伸びた杉の緑が風にゆっくりと揺られている。
そのような巨木の杉が檜原街道沿いを埋め尽くすかの様に林立している。
親方はオーナー夫妻に質問を投げかけた。
「これだけ杉林があって、杉皮はこのあたりでは手に入らないのですか?」
オーナー夫妻は、杉皮は最近ではほとんど手に入らないこと、そしてまた杉皮を葺く職人がいないことを教えてくれた。
奥多摩の杉皮葺きは、地の材料で、地の職人が葺いた証しである。
江戸時代後期から増加した会津や筑波の茅葺き職人たちが跋扈したその跡もない。
いずれ詳述しようと思っているが、関東から甲府、静岡にかけてまで、江戸から明治にかけて会津の職人はかなり出稼ぎに出ており、それぞれの地域で
会津流といわれる技術を残している。
しかし、甲府盆地東部から、奥多摩にかけてはほとんど会津の職人がはいったあとがなく、この一帯は彼らの技術の影響外にあったとみられる。
逆にいえば、甲府盆地東部から奥多摩にかけての杉皮葺きは、他所の職人の入る余地のないほど、地産の材料と技術によって維持されていたともいえるのである。