エッセイ5「土から屋根に、屋根にから土に」1
私たちの身の回りには、素材の原型が剥き出しになっているものがどんどん姿を消して行っている。
電化製品など何から作られているのか、もはや素人にはさっぱり想像がつかなくなってしまった。
確かにこれらの電化製品においても、素材の系譜という意味では、プラスチックや、金属など、その系譜をたどれば自然のものから加工されているといえる。
だがしかし、素材の原型は知識として有していても、そこから素材の原型を想像することは難しい。
20世紀が始まる頃から、素材を加工するという行為が日常化し、素材の原型が剥き出しになっているものがどんどん減少した。
もはや竹製のおもちゃよりも、ブリキ製、ブリキ製よりもプラスチック製、プラスチック製よりも、こんどは電子製である。
もはや目に見えて構造がわかるものが減少し、中身はどんどん専門化し、一般人では理解不能なブラックボックス品が日常化している。
ただ、ボタンを押せばよい。
あとは全自動で仕上げてくれます。
手間ひまいらずの・・・。
仕組みはわかりません。
構造もよく見えません。
故障したら専門家にみてもらいましょう‥・。
そう、現代においては、モノの素材の系譜が、もはやたどれぬほど、その加工の方法が高度に複雑化し規格化され、素材が剥き出しになってオリジナル
のままの姿をとどめていることがほとんどなくなってしまった。
それでは、いったい素材の加工を裏付けるこの技術はいったい何であろうか。
そのひとつが、複製技術である。
コピーを大量に作るという技術の発明と発達が、20世紀の生産体制の特徴であり、そこに動員される資本、人、場所が、あの「帝国」の体制を作り上げていた。
電子製のソフトが大量に生産され、果てしなく広く遠く流布され、またそうした水平方向への力を広告産業が助長する。
もはや竹や木といった土地に根付いたおもちゃの代わりに、映像とソフトが子供たちの手に収まっている。
私自身、幼少期はすでに映像とソフトが遊びの中心であったし、後年同じ世代に出会うと、出身地に関わらずとあるゲームに関する記憶を共有するという、
複製技術品のもつ普遍性に気づかされたのであった。
ローカルなものを越えて、あっさりと、いとも簡単に竹や木という受け継がれたおもちゃ=「歴史」が断絶されてしまう。
こうした現象は世界的であり、もはや国家や地域に特徴づけられるものではない。
このように、モノの「内から溢れ出る外へ向かう水平への力」が、実は「帝国」をもっとも安定化させている力となって後押ししていると見えてくるのである。
このことに早くから気づき、複製品の横溢と、そのオリジナルの喪失について1935年にベンヤミンはすでにこのように語っていた。
『どれほど精巧につくられた複製の場合でも、それ(複製品)には、「いま・ここ」にしかないという作品の特有の一回性は、完全に失われてしまっている。
—中略—(裏を返せば、)「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま・ここ」にしかないという性格によってつくられる。』