エッセイ4 野生の「しなり」1
「茅が手になじんできたか?」
茅葺きをはじめて半年ほどがたったときであった。
親方から聞かれてわたしはキョトンとしていた。
茅が身体化してきたのか。
そして、「ひとつかみ」という「相対性の中の絶対化」という経験が、そろそろ板についてきたかというのだ。
わたしはまだ口を濁して答えるしかなかった。
まだまだ「職人」と自称することが憚られたし、それだけ前途は長く遠いと感じていた。
そうしてヒラを葺き続け、修行開始から1年が経つ頃、少しずつ「ひとつかみ」の量が体得されてきたと実感できてきた。
これが茅に手が馴染むということなのだろうか。
だがそれ以上に、ヒラを葺いていて、解けない謎がある。
「えっ?これで大丈夫なの?」
屋根がつくられていく工程を見て、修行開始して間もない頃、沢井家でテッタイをしながら、正直最初に思った感想である。
これは、数ヶ月が過ぎたいまでも解けない謎のままであった。
下地と竹の間で茅が挟まれているだけではないか。
これで20年や30年耐久する屋根になるのだろうか?
豪雨や暴風にも負けない屋根になるのだろうか?
だがしかし、葺き終わった前の一段を触ってみると、茅の小口がみなこちらを向いて、ぎっしりと詰まって固い。
手で押すと軽い弾力とともに元に茅はみな元の形に戻ろうとする。
ススキや、ヨシという風にたなびき、手でも折れ曲がってしまう華奢な茎からは、集まることで想像もできないほどの固さになっている。
なぜこんなに固い面ができあがっているのだろう?
なぜ3尺6尺のヨシを順番に葺いているのだろう?
6尺だけではだめなのか?
なぜ2尺でも4尺でもなく。3尺と6尺という長さに指定しているのだろう?
沢井家の仕事がおわって次の現場でもほぼ3尺と6尺というヨシの長さをコンビネーションにして葺いていた。
さらに、この3尺→6尺(なかおさえ)→3尺→6尺(おさえ)というように、6尺という長い茅にはそれぞれ名前が付けられていた。
この疑問を親方にぶつけてみると、
「オサエの茅は一段の茅をまるごと押さえるという意味だよ。まずオサエの茅がどう働いてるかちゃんと見てるか?
そして、茅が一段の中でどのように収まっているか、断面図を書いているか?」と教えてくれた。