エッセイ7「タマとオクタマその1」19
ついに芝棟をもった茅葺き屋根が復活された。
葺きかえ作業を通じて、結いとして地域の一イベントにして、また地域のシンボルにしたいという鈴木社長の思い、そして茅葺き職人として少しでも多く
の民家を残したいという私たちの思いは、可喜庵が新たに芝棟を纏うという形で結実されたのであった。
そして武蔵野の「つち」の記憶、多摩地方の民家のあり方を勉強するきっかけになり、高校生の頃の私からは想像もしない程東京の街並というものが、
意味をもって見える様になっていた。
・東京の「郊外」
そのとき、東京の街だけでなく、再び東京西部におけるニュータウンと都市化の問題、すなわち東京の「郊外」について考えざるを得ない。
なぜならば、かつて郊外といえば、猥雑なネオンサインや人ごみから解放された「夢」の土地であったからだ。
「場所」とは元来、様々な時間や歴史が染み付いていた土地であったはずだ。
しかし、「郊外」とはそうした場所とは無関係に「夢」を強引に構築する方法であった。
戦前、明治後期から大正初めまで、旧大名屋敷の広大な跡地を買収した財閥によって、神田や駒込、音羽といった都心に「郊外」として整然と区画された学者、
軍人、経営者らの本宅が建ち並んだ。
しかし、大正中頃以降、私鉄が西進するとともに、「郊外」も西へ広がっていく。
桜新町、洗足、田園都市などが計画的「ユートピア」として、民間主導で開発されていく。
「渋谷停止場より約20分にて達すべく土地高燥にして空気清く井戸水清し、地味すこぶる豊穣、加えて近くは多摩川の清流を控え、遠くは秩父の
連山富嶽の秀嶺を仰ぎ、朝輝夕陽これも一幅の中にあるがごとく、健康地としてまた景勝地として、、、、」(山口廣編「郊外住宅地の系譜」p96)と、
大正2年の広告において、桜新町がまるで郊外の理想郷の様に表象されている。
そして、郊外の住宅地のあり方として「家と家が密接しておらず、一つの家庭がひとつの独立した家屋を有し、十分な光線と空気を受け入れ、
周囲にある樹木ある美しい庭園を有し、隣家と平和な交際をたもち、簡素な生活をするという村落の有する自然の恵みを充分に得られるものであり、
かつ近代的設備である水道とかガス、電気を利用して、都市に譲らぬ幸福を得られるもの」(前喝書p211)であるという。