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エッセイ7「タマとオクタマその1」17

 大正の初期まで、武蔵野における茅葺き屋根はほとんどが芝棟であったと想像される。

実際、鶴川の隣の柿生でも昭和29年にイチハツ棟が確認されている。(前喝書p139)

亘理氏は芝棟をもとめて昭和50年代より東日本を精査し、徹底して聞き込み調査をしている。

亘理氏によると、大正のはじめまで、目黒不動尊の近くの民家や、調布深大寺に隣接した民家に芝棟が確認されていただけでなく、イチハツ棟といえば

必ず引き合いに出されたのが横浜、川崎、多摩丘陵地であったという。

そして大正以降、「林業の振興とともに、杉皮などの樹皮類が潤沢に出回り、また竹林、とくにマダケの栽培が普及されることによって、芝棟にかわって、

これら(マダケ)を用いた簡易な棟にうつり、あるいは一度用意すれば繰り返し使用のできる草葺き屋根専用の棟瓦が用いられるようになった。」(前喝書p22−23)という。

つまり、瓦で棟をまくのも、竹簾でまくのも、平鉄板で棟をまくのも大正中期以降の話しで、それまでは芝棟が関東以北においては一般的な棟収めであったらしいのである。

 

 「芝棟」のルーツはいったいどこにあるのであろうか?

縄文時代にまで遡ると、当時の竪穴式住居は前述の通り、土が葺いてあったらしいのである。

鋭利な刃物は5世紀から6世紀に、新羅系の人々が鉄器の技術を持ち込んでから日本に普及されていった。

ススキや、ヨシといった株立ちするイネ科の植物は、鎌など鋭利な鉄器の存在を前提とする。

株ごと抜こうものなら地下茎で繋がっているヨシなどは、体力の消耗を激しくするし、数を集めるにはあまりに非効率である。

縄文人たちは、栗の木で掘立て柱にして、垂木を流し、垂木と垂木の間は、ネバリのあるマンサクなどの枝を撚ったものをつなぎ、山から小枝や固い草を

集めて柴として屋根にまき、その上を土で覆ったのである。

断熱性に富んだ土の屋根は夏は涼しく、冬は暖かったに違いない。

土に草がはえると根をはり土の流失を防ぎ、特にイチハツやイワヒバを植えると土がレンガのように固くなったという。

芝棟はこうした縄文時代の住居の最後の名残だともいえる。

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かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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