エッセイ7「タマとオクタマその1」12
武相荘の牧山夫妻や、鈴木社長の茅葺きへの愛着、そして、昔の多摩地方の風景を聞いたりするうちに、武蔵野の風景とはいったいどんなもの
であったのであったか知りたくなった。
すっかり都市化した鶴川の街並が出来る以前、武相荘や可喜庵が、武蔵野の農村の一部であったとき、いったいどんな風景だったのであろうか。
・武蔵野の原風景
「家が一戸ずつ孤立していて、まるで神社かお寺のように北に風よけの屋敷林を背負い、南に日当りを控えて、—中略—これは東京西部いわゆる武蔵野
の中央部にしばしば見られるものである。」(今和次郎「民家論Ⅱ」p39)
古くから開墾されてきた武蔵野台地には本百姓たちが大小の茅葺き屋敷をつくり、野菜や米をつくってそれを江戸に供給していた。
屋根の形はほとんどが寄せ棟で、後述する奥多摩の巨大な入母屋形式と対をなすようであった。
入母屋の形式は養蚕と密接にかかわりがあり、薄暗く、断熱性に富んだ茅屋根の屋根裏は蚕の飼育にうってつけであった。
明治時代に富岡製糸工場が出来る頃から、日本の基幹産業として生糸の輸出がはじまった。
その生糸の原料が蚕の繭である。
明治以降に日本の至る所で茅屋根の屋根裏は巨大化し、養蚕のためのスペースにあてがわれた。
現在は世界遺産ともなっている白川郷の茅葺き屋根は、実は明治になってからあれだけ巨大化している。
また、美山の茅葺きの里においても、破風板が大きくなったのも養蚕との関連性が指摘されている。
山梨県の寄せ棟民家は、養蚕用に改築し屋根の中央部を突き上げた櫓造りという形式が明治以降発達した。
北関東の茅葺きは巨大な入母屋は、富岡製糸工場にせっせと繭を仕入れた跡を物語っている。
しかし全国を席巻した国策の養蚕とは無縁だった地域が関東平野には二つある。
ひとつは筑波地方で、もうひとつは武蔵野台地である。
「土地が肥沃で、また江戸や東京までの街道が発達し、米や野菜をつくって売った方が、養蚕をするよりも遥かに割がよかったのである。」
(「民家は生きていた」伊藤ていじp68)