エッセイ7「タマとオクタマその1」8
都市を読むということは、私にとっては、都市を「つち」から考え直してみるとうことである。
のっぺりとした東京の風景を小田急線から見つめながら考えていると、美山のかやぶきの里を思い出した。
山べりに、およそ50棟ほどの茅葺き民家が肩を寄せ合うように集落をなしている。
もちろんそこには人が住み、暮らしを営み、生活がある。
はたまた昨年苦労して刈った宇治川や淀川のヨシ原の光景を思い浮かべる。
近江八幡の肥沃な水田地帯を思い返してもいい。
エチオピアのシェコの村から毎日みた風景も思い出した。
人々の営みがある美しい風景には、決して写真のような都市の美しさにはないものがある。
人間が生きる上で必要に迫られて山に入り、土地を耕し、茅を刈り、自然に絶え間なく手を加えることで、生態系が豊かになり動植物を育んで多様になり、
自然のまま放置したのでは生まれることはなかった風景である。
それは生きた「全体性」である。
都市が断片としての美しさをたたえているなら、人間と環境の関係性が自然であるというときの「つち」の美しさは、それ以上切っても切り離すことの出来ない
生きた全体としての風景なのである。
美山の集落はもちろん一棟ごとの茅葺き民家は美しいのだが、集落全体として美しい。
近江八幡の水田は、田一枚の美しさもさることながら、水田地帯全体として美しい。
その裏には人間の生活する上での様々な自然との関係が潜んでいる。
そのような美しさは、写真として分割して、顕微鏡で拡大してみるような線と線が生み出すモダニズムの美しさとは対極に位置し、うねうね曲がった線や、
不規則でひねった面を内包しながら全体としての秩序をもつ、リゾーム的美しさなのである。
シェコの村で過ごした草葺きの民家は、まさに地面から生えたように感じたのに対して、東京の街を車窓からみると、なにやら「つち」から建物が宙に
ふわふわと浮いているように感じる。