エッセイ6「場所ということ」18
現在の茅葺き屋根における出張のあり方は、ひとつに、「工務店」を通した大きな屋根を10名〜15名ほどかけて数業者で行うという「大きな出張」ある。
もうひとつに、集落で生活を共にするような、近代以前の出稼ぎに近い「小さな出張」がある。
どちらにおいても、屋根の下における共同生活という形で、近代以前の社会や家族のあり方の一端に触れるという点で重要であると考えられる。
そして、屋根の上では、「場所」に積み重なった屋根の形を踏襲しなくてはならない。
積み重なりを肌で感じることができる。
歴史や伝統を字面でなく、身体を通して感じていくことができる。
あまりに巨大な積み重なりを目の前にしたとき、多くの人は、その重み自体への畏怖を感じ、その重なりを支えた先人たちへの感謝し、自然と自分への
謙遜の念が生まれる。
学校では知識を教わるが、礼儀や倫理、誉れや恥など生き方を教えてはくれない。
そもそもそれらは言葉にして教えるようなものでなく、経験的に自分で感じながら、覚えてくものである。
学校教育に浸りきった私は、何でも言葉で教えてくれると思いがちであった。
そしてその過程で褒められて育ってきたものにとっては、徒弟制度など苦痛に違いない。
私も茅葺きをはじめた当初は、そのように感じた一人であった。
丁稚修行をしているものは「年明け」を目指す。
職人としての一人前を目指すわけだ。
もちろん満足したらおわりだし、修行に終わりはない。
一つの現場を完全に任せることが出来る、という意味で、通過点としての「一人前」である。
現場を任せるということは屋根を葺ききるということだけではない。
お施主さんや、元請けである工務店の現場監督、とくには国交省のお役人などと相談しなくてはならない。
社会性や倫理も求められる場面である。
人間として成長していることが多分に求められるのである。
出張とは、「一人前」になる過程において、仕事をより深め、技を磨き、そして人間として多くを学ぶ場として重要な役割を果たしているのである。