エッセイ6「場所ということ」13
かつて、流儀の違う職人同士が同じ屋根を葺くということはまずありえなかった。
徒弟制度の中で、一つの屋根を葺き、弟子は親方から教わった「正しい」屋根を身につけ、それを忠実に守ってさえいればよかった。
ところが、60年代以降、茅葺き屋根の激減ともに、茅葺き職人も減少した。
かつては、ひとつの集落に、茅葺き屋根専門の職人は必ず一人以上はいた。
そしてその集落という「場所」で育まれた屋根の流儀を踏襲して、技を受け継ぎ、伝えていった。
この辺りは、また別項に詳述する予定だが、茅葺き屋根の地域による屋根の形そのものから、葺き方までの多様性は、明治維新以後、国家として
あらゆるレベルで統合が計られていった流れの中で、農村では依然として江戸時代の藩領制の名残の中で、それぞれの「場所」で生産される茅、藁、
竹、木材に応じて、それぞれ独自の屋根工法が発達してきたことに起因する。
茅と一口に言っても、太い、細い、長い、短いか、どのような茅が現場にあるのかによって、屋根を葺くときの工程が変わってくる。
材料と相談しながら、いまある茅をどうしたら最もしならせて収めることができるのか。
いや、しならせることさえしなくても収める方法もある。
茅が違えば、方法論も違う。
こうして、「場所」に育まれた流儀は、戦後、高度経済成長を迎えるまで、茅葺き屋根は都市部から遠く離れた農村地帯で細々と維持されてきたが、
私たちの世代になると、もはや一人の職人としてではなく、施行業者として屋根を維持するしかなくなってきた。
減少する職人で全国の茅葺き屋根を維持するには当然出張も多くなる。
しかしこのときこそ、他所の「場所」で育まれてきた屋根の葺き方を学ぶチャンスでもある。