エッセイ6「場所ということ」5
景観にあったような建物などいくらでも作ることができる。
コンクリートだって砂と砂利と鉄セメント(石灰石が主原料)からできているのだから、素材の系譜という意味では自然な素材である。
だがしかし、場所がわからない。
使われる素材と建てられる場所が密接な関係がないのである。
これは極めて20世紀的な建築方法であり、さらには大量のコピーという近代の生産を象徴するような代物であった。
コンクリートとは魔法の素材であった。
コンクリートを使えば頭で描いたイメージを具現化することができた。
たとえば、コンクリートの上に、石を貼って重厚に仕上げ、世紀末のパリやウィーンを気取ってもよい。
ステンレスやアルミを貼って、近未来的なSFテクノロジーを気取っても良い。
木材や土を塗って、やれエコロジーだの、自然建築だの気取っても良い。
このように、施主の気分、「場所」との関係いうよりも個人の趣味に応じて、コンクリートを使えば、いかようにもコピー&ペーストな建築が可能であった。
視覚的に景観に調和した建築などいくらでも作ることができる。
「スペイン〜」「オランダ〜」「ドイツ〜」などというテーマパークはいくらでも可能だ。
それらしい素材を切って貼付けてしまえばどんな形でもできる。
だがしかし、見た目だけ揃っているということだけで、果たしてそれは場所と密接な関係を結んでいることになるのだろうか。
20世紀は、視覚の時代であった。
視覚に訴えかけるならば、洒落たデザインの服に袖を通し、著名な建築家が手がけた家に住み、よくよく広告によってイメージされ洗練した外車に乗る。
近代以降の生活とは、みること、みられることに異常な重点をおき展開されていった。
匂いや聞こえは後退していき、デザインとは、つちから視覚を切り離すことで意図されるものであった。
一方、タウトが感じた、桂離宮の感激は月見の縁、池、亀、船着き場、ツツジ、東屋とは、耳や鼻も通して、それぞれ切っても切りはなすことのできない
相互的関係に基づいた全体性であったはずだ。
場所に根ざした素材と生産の密接な関係。
その全体性こそがいま問われているである。
すでに茅刈りの効用は、人間が茅を刈ることで生物が多様になり、生態が豊かになることで実証されてきた。
同じようにおやっさんが「生きるために」ヨシを刈ることで知らず知らずのうちに環境によい影響を与えてきた。
こうした人間と環境との関係性が自然であることが近代以前の大方の姿だといってもよい。
茅葺きが「つちからやねに、やねからつちに」というサイクルの一端をになっていること、そして茅を葺くという行為は、そのサイクルの中の一つのプロセス
にしか過ぎないことはすでに指摘した通りだ。
茅という素材は、茅狩りという労働、茅の管理や販売という生産、そして茅を使った屋根という「場所」に根付いた生活から生産までのサイクルをひとつに結びつける。