エッセイ6「場所ということ」3
近代とは時代区分ではなく、社会の中身、成り立ち、仕組みを指す。
これは〈帝国〉の中でその中身が詳述されているが、こうした近代社会では死が巧妙に隠蔽されている。
死が生活の遥か彼方に押しやられているのだ。
見えない死は、生をも見えにくくする。生が充満しないのだ。
結果として生が偏ってしまう。
そうした偏りの発露として、訳の分からない犯罪や暴力が生じる。
そして、近代とは、生と死が蠢く温床であった「つち」から脱却することでもあった。
もはや裸足で土を踏みしめることはしない。
パックされた食品類。「徹底的に除菌をしました」という謳い文句。
このように、もはやリアリティとは土の外で、つまりは生物や植物の生と死の外で、生じるようになってきた。
アメリカのインディアンはカリフォルニア大学の門に立つことで、それまでの土との関係を絶った。
象徴的な彼の生涯は、土と関係するか、しないかという二分によって「伝統」と「近代」を考えることができる。
おやっさんはいう。
「生きるためにな、何でもしたで。スダレを営業して売って歩いたり、それでも中国産のヨシズが入ってくるようになると、全く売れなくなってな。
タクシーの運転手もした。それでもヨシを刈ることは止めなかった。」おやっさんは「つちとの関係」を断たなかった。
「やめるのは簡単やで、でもなずっとやってきたことをそのままやることに意義を感じるんや。」
先祖が代々してきたことだから意義があるという。
ヨシを刈ることで、人間が材料として使う以外に、周辺の生態によい影響を与える効用はすでに知られている。
やはり重要になってくることは、人間と「つちとの関係」にあるのではないだろうか?
そして、その際「関係性」ということがどうやら鍵になってくるようだ。
つちと関係していること。
そこから必然的に付随する、草や虫、天候や季節などとの関係。
そして人間は周辺の生態に対峙せざるを得なくなるという関係性そのものである。
そこは生と死が蠢き、或るときは春の陽日が差し、あるときは生臭い匂いや、驟雨が立ちこめる。
そうした生きた全体であった周辺の環境と人間が関係していること。
この関係性が濃厚であることが重要なのであって、自然とは何か人間から切り離されたネイチャーではない。
人間が生きるためにネイチャーの中で活動せざるを得ない環境、つまり人間と生きる「場所」との関係性、これが自然であることが重要ではなかったか。