エッセイ4 野生の「しなり」8
だがしかし、これでは屋根の寿命が縮まってしまう。
じつは、茅と茅の間に微妙な隙間がないと、空気の通り道がなくなり、屋根の朽ちるスピードを早めてしまうだけなのだ。
屋根は呼吸しているのである。
茅という本来持っている微妙な反り、ねじれ、曲がりを包含してこそ、呼吸する屋根ができるのである。
そして不規則で、矛盾だらけの茅をすべて「しなり」ながらおさめてしまうという全体性を生んだ。
この反り、ねじれ、まがりは、規格化されたパスタから見れば矛盾であり、例外である。
この矛盾や、例外は、近代化以降の合理的な生産体制のもとでは、除外され、忌み嫌うべき対象となってきた。
人間のコントロール下におけない矛盾だらけのものは捨て去るべきとされたのだ。
「野生の思考」は、この矛盾を全体として包み込む方へと志向した。
近代化以降の量産規格品では発想しえない「野生の思考」は、ブリコラージュから始まり、幾多の実験を経ながらそれを深化させ洗練させ、
「矛盾を飲み込んで全体を照らす」という思考にたどり着いたのである。
同じことは音楽にも当てはまる。
中央アフリカの熱帯雨林を生活の場とするピグミーの音楽を聴いてみよう。
その歌の声色は急速にファルセットになったかと思うと、低音を轟かす。
まるで鳥が鳴いているような、まるで虫が奏でているような美しい歌声が、森自体が共鳴体となって響き渡る。
そこには明確な五線譜では表現しきれない、微妙な音階のズレ、リズムの不規則、声の揺らぎが含まれている。
五線譜から見れば矛盾でしかないこのズレや揺らぎを包含する全体性がピグミーの音楽には生き生きと表現されている。
そして、その表現は、かれらの精霊信仰や、生活と結びついた「一度きり」の表現であり、五線譜に表現される「音楽」として分離、断絶されるものではない。
五線譜、これこそが西洋的な合理的な音階の表現であり、この数学的、直線的な五線譜はいわば、建築における設計図とその発想において酷似している。