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エッセイ3「別嬪さん9」

「人間にとって、歴史とは生命の枠組みであり、生命のいま・ここの意味と根拠を限定する唯一の力である。

—中略— 生命にかたちと動き方を与える力のみが歴史である。

この力は感覚的には捉えられない。

それゆえ歴史とは人間の精神にとって掟のような何かである。この何かに触れる能力をわたしは歴史感覚と呼んできた。」(1)

 

そう歴史が不在になってから、わたしたちには「いま・ここ」という強力な感覚が希薄になっているのだ。

よって、わたしたちは政治に無関心になる。

プライベートを最大限訴える。

同時に公共心が減少していく。

余暇とレジャーが崇拝され、「ゆるさ」「ふわふわ」「ほっこり」が横行する。

家の中では、それぞれの成員が、それぞれの部屋で、それぞれの趣味をつくりあげ自分だけの空間を作り上げる。

「いま・ここ」の感覚は、その部屋の中で、ヘッドフォンを通してアングラもビルボードもないような音楽を聴けば事足りる。

モニターのまえに鎮座し、コントローラーを片手に、あふれでる映像に一喜一憂すれば事足りる。

「じぶんいがい」による強力な慣習を忌み嫌い、「自由」を叫び、いつのまにか個人の健康、個人の幸福、個人の関心によって、「いま・ここ」を枠づけるようになった。

こうして刹那的な情報と、圧倒的な物量によって、個人の自由を生産=広告側が支えることで、現代的な消費社会はできあがり、それは世界のどこでも普遍的に

みられる近代化以降の社会の姿となった。

この姿は過度に個別化、個人化が進んだ社会として、「個性化社会」(2)とも呼ばれ、「帝国」の内側を照らし出す正体でもある。

 

この「個性化社会」では、各人それぞれの方法で、それぞれに答えを求めてよいことになっている。

「いま・ここ」を規定する歴史感覚が退位してからというもの、すべてが別様であり得るような社会が可能になってしまった。

もういいではないか、歴史へのロマンをすてて、「いま・ここ」を楽しんでしまおうじゃないか!

「電車の中でお化粧したっていいでしょ。」「山の中でのレイヴが一番だよ。音と光、月と太陽、空と森、すべてが一体になるんだ。」

そう「帝国」のなかで忘我し恍惚となり踊り狂うことで、歴史とさよならしよう。このまま踊って歌って生きていこうじゃあないか。

「なんでだめなの?」と問いかけることが公然と行われ、「大人たち」は返答することもできずにたちすくむ。

 

「いやだからこそ歴史感覚を取り戻さなければならないんだ。」と大人はいう。

もういちど、「歴史がしっかり歴史として機能していた時代」に習うべき像をもめてみよう、と手近な歴史に答えを求める。

幕末主題の映画、ドラマ、受け継がれた剣術、伝統芸能の身体技法、そこからなにかしらの「日本らしさ」「日本的なもの」を見いだし、私たちが歴史的

連続体として自認する努力をする。

考古学的趣味も後押しする。歴史的連続体としての自覚は、「いま・ここ」に立っている土地を掘り返せばよい。

出土する土器、土偶に夢を馳せ、各時代の遺構の発見に、わたしたちがその上に積み重なった土=歴史の上に生きていることを実感する。

 

(1) 渡辺哲夫「二十世紀精神病理学序説」西田書店 p120—p121

二十世紀の捉え方は様々であるが、歴史の不在、歴史の終焉が方々で叫ばれてきた。

歴史感覚の不在は、精神病理学的に見て、「病んでいる」というのである。

19世紀までの人間のあり方からみて、二十世紀の人間は「おのれの歴史的存在の明証性への狂おしい衝迫が見てとれることである。」という。

 

(2)ジル・リポヴェッツキー「空虚の時代—現代個人主義論考—」(法政大学出版)のあとがきにおいて、個性化を次のように定義づけている。

「それまで神や集団的なものに従属していた個人が社会の主要な価値へと格上げされ、その個人の自由な選択にもとづいて社会生活の全領域が再編成されることを指す。」

ここ十数年の日本で欧米よりも遥かに速いスピードでこの個人主義革命が起こっていることに着目せねばならない。

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