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エッセイ3「別嬪さん8」

思い出してもみたい。

わたしは、はじめてシェコの村に向かう道程で、タッカとアドマスの民族的生態知識に助けられた。

彼らも同じように大人になるための成人儀礼を経験したのであり、そのために周辺環境の知恵に対して「自負」がある。

そして、幾多の失敗や実験、そして先人たちの知恵、つまりシェコの歴史=文化を受け継いだ自負も持ち合わせている。

そこに自身の身体化された経験が伴い、その言説はシェコの村において絶対的になる。

 

一方で、私たちの社会はどうであろう。

いわゆる先進国、近代化をとげた社会ほど「おとな」と「こども」の線引きが曖昧になっている。

この国では大人になる文化的な装置がみつけにくい。

マムシが体験するような劇的な通過儀礼は存在しない。

この国における成人式とはもはや名ばかりの儀式である。

成人式を終えたものに対して、だれが社会的に「一人前」であると考えよう。

そして、だれもが大人になったという明確な認識をもたずに社会にでていく。

学校教育が大人になるための緩やかな苦痛や経験を与えてくれる通過儀礼だとも言われる。

だがしかし、十数年におよぶ学校教育を経て、わたしたちはこの国で何を絶対的に語り得よう。

何をか「自負」をもって接し得よう。

身体化された歴史や文化の継承という感覚のなんと薄弱なこと。

もうすっかり歴史との接続が確認できなくなったわたしたちは、「歴史化された身体」を身につけるチャンスが極めて希薄になっている。

そう、問題は、やはり歴史=文化の連続性という感覚が、私たちがほとんど自覚できないレベルにまでに蔑ろにされてしまったことだ。

それでは、再び問わなくては成らない。

この歴史感覚がいったいいつ頃から薄弱になってしまったのであろうか。

 

近代化の様々な側面の中で重要なことは、近代化とは過去との断絶であり、歴史とのつながりを捨て去るということであった。

わたしたちは近代化を経て、同時にそれまで積み重なった歴史=文化を捨て去ってしまった。

こうして出来上がった現代社会の功罪はもうすでに多く語られていることなのでいまさらここでは詳述しない。

重要なことは、この「歴史不在」において、わたしたちは社会の一員であるという客観的な感覚が希薄になり、代わりに、それぞれの方法で、

それぞれに生きてよいという極めて主観的な感覚が優先されてしまっていることだ。

近代化以前にははっきりと見てとれた社会の後ろ盾と成る慣習、ルールが崩壊し、地方から地域やローカルが剥奪され、かわりに敷かれた

近代教育はまだまだ私たちを十分に大人にする文化的装置とは足り得てない。

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かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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