エッセイ3「別嬪さん7」
さらに、わたしは、「身体化された歴史」にはあるものが滲み出ていると感じる。
それは「自負」である。
「自負」とは自分の業績や、才能、あるいは知恵に仕事に虚飾のない自信をもち、誇りを抱いていることであり、プロフェッショナルであることを自認することである。
自負は、頭でつくられるものではない。
頭の中でつくられたものは、単なる自信、多くは過信にすぎない。
自負とは身体のなかで様々な葛藤や、失敗を含んだ広大な経験によって裏付けられるものである。
こうして、わたしは茅葺きをはじめて数年の間に少しずつではあるが、たしかに前の自分とは変化していることに気づいた。
すこしでも「自負」が芽生えたのであろうか。
茅葺きの仕事を始める前は、自分が大人か子供かどうかなどと理解していなかったように思われる。
生意気に「大人ぶった」ことをたくさんしたような気がするが、それは表面を撫でたに過ぎない。
「歴史化された身体」がいま「帝国」で「大人になる」ために非常に重要だとさえ思うようになった。
この国において、一体何をもって「大人になる」のであろう。
どれだけの人が自分は大人であると自認するであろう。
マムシはどうだ?13才のマムシはシェコの社会でいったいいつ「大人になる」になるのであろう。
通常、民族社会では、痛烈な通過儀礼によって一日から一週間ほどで達成される。
マムシは言う。
「僕は15才になったら、一週間ほど狩りに出かけなくてはならないんだ。しかも一人で森に入らなくてはならない。
父親と一緒に何度も狩りに行っているからある程度のことは分かるけど、グレザと呼ばれるもっとも素早い猿を捕まえて戻ってこなくてはならないんだ。」
だれの手も借りることなく、彼は生まれ育った村を背にして一人で森に入ってゆかねばならない。
そこには、家族との別れ、ひとりぼっちという精神的苦痛、いつ動物から襲われるかもわからない森の恐怖など、マムシの中で目に見えない心の葛藤を経験する。
マムシの社会では、「一人前」=「大人」になるために、それまで所属していた社会や、集団から隔離され、一定期間の間その隔離された「森という異界」
「森という非日常空間」の中で、様々な試練や教えを受けて、様々なタブーに服さなくてはならない。
そして「グレザ」を捕獲すること=一人前になることを経験して、同時に自身による森の知識、生態への造詣を深め、文字通りシェコの村において生きていける「大人」へと変身し、
再び社会の一員として統合される。この、分離、過渡、統合というプロセスを経ることで、大人になり、同時に社会の成員に「一人前」として迎えられる。