エッセイ3「別嬪さん5」
ここで再び登場するのが「相対性の中の絶対化」という、「別嬪さん」を決定していた概念である。
「ひとつかみ」とは、人によって手の大きさが違うのは当然であり、一握りの茅の量がかわってくる。
がしかし、これも数多く茅を並べることで、自分の一掴みが人に比べて多いのか少ないのか、幾多の相対化のなかで経験的にわかってくるのだ。
多くの職人と出会い、ともに仕事をし、ともに茅を並べていく中で、ある普遍的な「ひとつかみ」の量に近づいていくのである。
それは茅葺き職人の世界の中における「ひとつかみ」という分量が身体化されていくともいえる。
あるひとつの社会におけるルールや規則を覚え、それを体得していく過程はまさに「相対性の中の絶対化」という過程そのものに他ならない。
親方のいう「絶対性」とは、茅葺きの世界においてどの職人たちからも一応の了解と納得を得られる「客観性」のことであり、その感覚を身につけろということだったとようやく理解できたのである。
だがしかし、よく考えてみるとこの「相対性の中の絶対化」という茅葺き屋根における精神的作業を、さらに大きな枠で捉え直すと、現代で生きる私たちの心にとって示唆的であるということに気づく。
すでにデリダやドゥルーズなどによって、現代社会は「差異」によって成り立っていると説明された。
それは、絶対性を欠いてしまった時代。
すべてが比較の上に成り立つような時代。
生きる指針など与えてくれるものはもはや存在しないような時代。
過去においては、慣習が、宗教が、総じて文化が私たちの生きる後ろ盾、生きる指針となって働いていたが、もはやそれすら崩壊してしまっている。
現代とはそのような時代だと考察されていた。
すでに神は退位してしまった。
コピー商品の横溢、執拗に消費を迫る広告、もはや選択することが消費の一部と化し、また選択すること自体が億劫ですらある。
すべてが別様であり、すべてがそれなりの仕方で正しいのであり、またすべてが別様であることを苦にする。
いったいこの世界はどうなってしまったのだろうか。
ここでわたしたちは再び「帝国」に直面する。
「帝国」を問題にすることをもはや避けて通れない。
先に述べたように、「帝国」とは巨大なアメーバでできた国家や地域を越えた生産体制であった。
「帝国」を前にした私たちは、口をつぐむしかない。
とどまることのない情報とモノの流れのなかで、誰もが無口になる。
私たちは物事を「絶対的に語る」ことができなくなってしまっている。
「わたしは〜を信じている!」「わたしは〜が正しいと思う!」などと叫ぶことができなくなってきている。
控えめに、波風たてずに、価値判断を彼岸に置きながら、静かに主張することが望ましい。
過激な発言はさけ、体制に、そして環境に優しい語りがふさわしい。
現代では決定論的に語ることがもはや時代遅れのように思われるのだ。
それでは私たちは何も語り得なくなる。何もかもが「それは幻想だよ」と冷笑されるのがオチではないか。
いや、そうではない。
そうではないことに気づいていく。
こうした絶対なき「帝国」に生きるわたしたちにこそ、親方のいう「絶対性」をもとに何かしら確信をもって語ることが可能であると考えられるのだ。
「丁稚修行」の過程で、親方や先輩たちの仕事に対する絶対的な言説を聞き、仕事にたいする理解を深めていく過程で、「相対性の中の絶対化」に何かしらのヒントがあると感じたのである。
茅の「別嬪」選定作業を覚え、選んだ茅を実際に葺いていくようになり、さらに経験をさらに積むと、これが「ひとつかみ」だ、これが「別嬪」だと絶対化するまでの時間がさらに短縮されていく。
どうしてこれが瞬時に「ひとつかみ」だと言い切れるのだろう。