エッセイ3「別嬪さん4」
テッタイとしての仕事の優先第一は、この「別嬪さん」にしろ、3尺のヨシにしろ、要求される茅を職人に持っていくことから始まる。
茅がなければ、屋根は葺けない。
「職人が屋根から降りてしまったら、仕事が全うされていないということだよ。」(山田親方)
そう。
茅が足りずに、職人たちが茅を下まで取りにくるという事態が発生するならば、それは私自身の先の読みの甘さが露呈し、仕事の流れが掴めていないことが露呈しているということなのである。
こうして、茅をあげていくうちに、ひとつのことに気づいていく。
ただ要求されるがままに仕事をしていては必ず一歩遅れをとってしまうということだ。
ある程度の流れをよみ、一歩先だけでよいので読む、という意識をもってから少しずつ茅を満足にあげられるようになってきた。
「一歩先」「二歩先」と現場の流れを読む日々が続く。
そして、数ヶ月がたち、十分に茅をあげ、準備できるようになってくると、手が余るようになってきた。
「そうなったら屋根に茅を並べていい。」(山田親方)
はじめて茅を並べたのは、ヨシを3尺(90cm)に切ったものであった。
そのときはなぜヨシを3尺にきっているのか、まったく理解できなかったが、とくにかくいまは言われた通りにやってみるしかない。
「手にとって一掴み分のヨシを並べてみて」
一掴み分?なんとも曖昧な分量である。
見ると職人たちは茅束のヒモをほどき、もの凄い早さと正確さで、その一掴み分の茅を正確にならべていくではないか。
しかもよく見ると微妙に曲がったヨシである。
ひとつとして同じものがない自然のものである。
その不規則で、不調和であるはずの茅を、一掴み分という、およそ主観的になりかねない分量を、みな同じような分量で並べていくのである。
これが「息が合う」ということなのだろうか?