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エッセイ2「仕事を盗む5」

歴史とは、このように個人の苦心や心理的な葛藤の集積なのだと考え直すようになった。

受け継がれた技術や知識を、自分の中で解釈し、身体を通して、手や足を使って再提示していく。

これこそが「創造する」ということではないのだろうか。

「創造する」とは、一般には過去に存在しない、新たなもの、アイディアを初めて作り出す、考え出す能力をさすと思われているが、

過去に存在しないものを一度に創りだすことができる人間など存在するのだろうか?

無から突然オリジナルを描くことなどできるだろうか?

わたしは、20代前半に音楽を通して「唯一無二」を目指したが、茅葺き屋根の修行を通して、それがどんなに独りよがりの自己満足に過ぎないことであったか痛感した。

いま私は、「創造する」とは、過去に散らばる無数の知識、技術を自分の血とし肉とし、組み合わせ、練り上げ、反復し、

その結果過去の知識や技術を改善し、よりよくする方法を発見することだと考えるようになった(2)。

大いなる過去のコピーの果てにこそ、現在のオリジナルという創造がうまれるのだ。

だから、「創造する」とうことは、自身が歴史的な主体であることを悟ることでもあるのだ。

そして、ひとつの社会で生きていく覚悟をもつことは、政治的な主体であることへの覚悟でもあり、またよい意味でのあきらめでもある。

大いなる過去の遺産の相続によって、初めて「創造する」という行為が可能だと悟ったとき、一人の人間の能力の限界を知ることにもなる。

それは、自己自身に対する限界を知ることでもあり、そして、多くの人々の努力と創造によって自身が支えられていると悟ることでもある。

そこから仕事に対して、人に対して謙虚という姿勢がうまれるのだ。

そのとき初めて自分自身が歴史の一枚の中に加わる資格を得ると思うのだ。

 

この人間の創造力は、シェコの村や、茅葺きだけで湧き起こっているものではないだろう。

あらゆる仕事において、過去の遺産を受け継ぎ、人間ひとりひとりの真似たり失敗したりする自身との葛藤、そしてこの仕事を社会を

「よりよく」するという意志、そのための「創造への志向」がいま地球のここかしこで働いているとしたら、歴史とは過去の時間的な塊ではなく、

現在に集約されて、同時にかつ多様に、うねり、ふくらみ、沸き立つ襞(3)のようなものであると考えられる。

そう、歴史とは決して一直線に進むような奇麗な物語ではなく、個人の中で止まったり、向きを変えたりしながら、ザラザラして、デコボコした襞を形成する。

人間ひとりひとりの中での微細な視点が重要だ。

こうしたらもっと良くなるのではないか、ここを変えたら何か変化が産まれるのではないか、こうした創造力が世の中を作り、

世界を前進させている力となっているのであれば、「身体化された歴史」とは、決して書物に文字として残るものではなく、

いまこの瞬間に身体の中で湧き起こる創造力によってつくられるものに他ならない。

だからシェコの村だけでなく、「身体化された歴史」は茅葺きにも起こりうるし、とっくに近代化を遂げ、絶え間ない情報と

モノの中で生きる私たちの社会の中でも起こりうるのだ。

もし、書物化され、文字として固定化された物語を「歴史」と呼ぶのであるならば、「襞としての歴史」は、つねに現在に集約されているため、

視覚化されず、「歴史」を形成しえない。

しかし、この襞にこそ、わたしたちが歴史的な主体としての意義があると思われるのだ。

ネバネバして不定形なアメーバ状の襞。

沸き立ち、溢れる立体性を持つ襞。雑音や不協和音が鳴り響き、非合理的な動きや、不規則な曲線がひしめく、そうした包括的な

現在の全体を照らしてくれるのが襞だ。

この襞をさらに襞たらしめているのは、まさに人間の創造力=豊穣すぎる生命力の躍動なのではないか。

 

だからこそ「差異」がうまれる。

もっといいものを!と創造する力は、帰結として差異を生み出す力ともなるのだ。

類似品が溢れかえる昨今において、差異そのものが目的であるようにみえても、その実、過去から受け継がれた知識や技術を改善する苦心、

実験の帰結なのだと考えられはしないか。

「差異」という概念は20世後半から資本主義を分析する際の重要なキーワードであった。

だがしかし、差異は資本主義とは無縁と考えられるシェコの村でも存在した。

マムシのナイフ捌きには、先人たちの叡智に加えて、彼自身の創造力に基づいた技術がこめられ、まわりの少年たちと差別化しようとした。

茅葺き職人の間では、仕上げハサミの刃の厚み、反りの形状を変え、試行錯誤が行われているところだ。

こうして過去との決別、差別化が行われていくのだ。

「こうしたらよりよいものができるのではないか。」という歴史と自己の葛藤を通した創造力が、差異を生み出す原動力であり、

襞を襞としてより特徴づけるのだ。

それはモノ作りに関わらず、あらゆる産業に通底していることであろう。

だから私は差異というのは資本主義の社会構造のみを照らすのではないと考える。

人間が創造力を働かせたときに起こるひとつ当然の帰結なのだと思う。

 

(2) 本稿における創造力の考えた方は、ベルグソンに負うところが大きい。

『有機的世界の進化が全体としてあらかじめ決定されているはずがない。

有機的世界において、次から次へと別な形態が不断に創造されていくところに、生の自発性は発露されているというのが私の主張なのである。』アンリ・ベルクソン「創造的進化」

過去の偉大な哲学者の言説を、私自身の体験や経験でそれを確認し、それをまた言語化するという、インプット(過去の言説)=体験(創造)=アウトプット(言語化)が本稿のテーマでもある。

(3) ジル・ドゥルーズはライプニッツを引用しながら次のように語る。

「襞とは差異生成の要因であり、微分=差異化のことなのです。

—中略— 襞の概念は常に個別的です。相違を示し、分岐を起こしながら変容して行かない限り、地歩を固めることができないのです。」(p261)

「襞の中で知覚がなされ、世界はひとつひとつの魂のなかで折り畳まれ、魂は魂で、空間と時間の序列(調和)にしたがって、

世界のうちのどこかの圏域が折り畳まれていたのを拡げるのです。」(p258)

この襞という概念は、多種多様なスピードと強度の流れをもった現代社会の全体を捉えるのに有効な概念であると考えられる。

ジル・ドゥルーズ「記号と事件」1992

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かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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