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エッセイ2「仕事を盗む3」

「仕事は盗むものです。最後まですべては説明しないよ。」

 

少しずつ屋根の作業をさせてもらえるようになって、山田親方からいわれたことだ。

仕事を盗むとはどういうことだろう。

私はまず、テッタイ業の合間に職人たちの動きをよくみて真似をするということから始めてみた。

「真似をする」とは心理的葛藤を要するものである。

まず自分を排除する。このことが、案外難しい。

積み重なった体癖がどうしても出てしまう。

だがしかし、意識として、自分をなるべく客観的に把握し、体壁を含めて自分を形作るものを見つめることが重要だ。

そして他者を自分に迎え入れ、憑依させ、同じ動きを努める。

そうすることで、他人の袖見て我が振り直すのであり、そうしたこと数年単位での繰り返しの中で、やっと「自分らしさ」みたいなものが滲みでてくる。

 

数年経ってやっと気づいたことだが、動きを真似るとは結果として、オリジナルへの近道なのだと思う。

「オリジナルは大いなるコピーの後に生まれる」のだ。

わたしは、20代の前半、音楽を通して自分のオリジナルを生もうと考えていた。

どこかで自分にしか出せない「唯一無二」の音を探索していたし、そしてどこかにあると信じていた。

いま顧みるとそれは強烈な若き青年の自己主張にすぎなかった。

そのようなオリジナルの探究は、頼りない自分、空虚な自分への充足行為であり、ただの独りよがりな自己満足であったと気づいた。

「真似をすることは」、まず自分に足りない。自分が学ぶべきものだと自覚することから始まる。

 

そして、「真似をするということは相手に敬意を示すということでもある」(山田親方)。

 

さらにそれは自分に謙虚な気持ちをうむことになる。

茅葺きを初めて数ヶ月のものにはまさに「茅」をも掴む思いで、自分に足りなすぎる様々な点を、「真似をする」ことによって埋めようとした。

 

たとえば、屋根を一段葺きおわり、「タタキ」という道具を用いて、屋根を整形するときの山田さんや大崎氏、松木氏の動きをよくみた。

タタキのどの部位を使っているのか、持ち手のどこを握り、体重をどのようにかけるのか。

うまくいかない自分を顧みるために、鏡として先輩の職人たちの動きをみて、自分に投影してみる。

こうした試行の連続で、少しずつ自分の身体にタタキという道具がなじんでいく。

 

「仕事を盗むもの」とは茅葺きだけでなく、大工さんや左官屋さんなど、伝統建築にかかわる仕事でいわれていることだ。

教えてしまえば早いものを、どうしてわざわざ仕事を盗ませるのであろう。

当時疑問におもったことである。

後年気づいたことであるが、ひとつの道具なり、動作なりを身体化するためには、やはり自分で発見し、自分で失敗し、自分で拾うしかない。

実はすべて言葉で説明する方が、遠回りになってしまうのだ。

むしろ、私自身が経験したような真似をするうえでの自分自身との葛藤、相手への敬意といった、心理的な学習の方に重きが置かれていると思われる。

 

このような意味で、言葉の介在よりも、身体の瞬間的な無言の動作のほうが、はるかに含蓄に富んでいる。

たとえば、茅葺きの工法をテキスト化し、合理的に教わることもある程度可能だと思われるが、それでは心理的葛藤や、失敗がなくなってしまう。

一つの道具や技術を身体化していくなかで、自分との格闘、真似と失敗という大いなる過程こそが、成功への大きな糧になるのだ。

そしてひとつの失敗という経験は、タタキ以外の仕事の中でも、失敗を未然に防ぐヒントになっていく。

つまり、真似たり失敗をすることで、経験に「厚み」がでるのだ。

ひとつの失敗が枝になり、葉を茂らせ、次の失敗を予見させる。

こうして自ら仕事を盗む、そして盗んでから自分のものにしていく過程こそが、大切なことなのだと気づくようになっていった。

 

さらに「仕事を盗む」とは、裏を返せば、「あなたはどれだけこの仕事に対して意欲がありますか」と、姿勢を問いかけられているのである。

もっといえば、この仕事を選択し、「職人として生きる覚悟がどれだけあるのですか」と問いかけられているのである。

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職人が綴ったコラム

かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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