エッセイ:エチオピア3
大人たちも私に様々な質問をなげかけてくる。
彼らにとって、私は第一に情報なのである。
なんといっても村にはノイズだらけのラジオが一つあるだけである。
私は、彼らが尋ねるままに答えていた。しかし、そのまま答えることにはひとつ重要な問題がはらんでいる、と思うようになる。
質問されるままに日本のことを答えると、彼らは決まって、「おれたちゃこんなに粗末さ。」「ああいいねえ薬もない我々は病院にも行けないよ。」
と落胆の表情を浮かべるのである。ほとんど外の世界を知らないシェコの人々である。
聞かれるがまま答えるということは、実は彼らに文化的差異を知らせることになるのだ。
外の世界を知るということは、自分たちの世界を相対化するということである。いいかえれば、自分たちの生活を眺める外の視点を獲得するということである。
絶対的な「身体化された歴史」の上にあったはずのシェコの村の生活。
その文化、歴史を、ほかの社会と比較する、という視点をもたせてしまうのだ。
私は困惑した。彼らが尋ねるままに、私は答えてよいのだろうか?シェコのまっすぐ育ってきた太い文化=歴史の茎を曲げてやしないだろうか?
「純粋な」シェコの村をグローバリゼーションの渦にまきこんでやしないだろうか?
しかし、私がここに来たこと自体、もうすでにグローバリゼーションの大波に乗って来たことではないのだろうか?
そんなことを自問しながら、毎日変わらない山々の風景をながめていた。
↑シェコの村で借りていた草葺き民家
私は村の中の草葺きの空き家を借りていた。
このとき初めて草葺き屋根というものを間近で見て、触った。
だがしかし、翌年には私は日本で茅葺き職人として経歴をスタートさせていることになるとは、このとき夢にも思わなかった。
このときには何気なく屋根に葺かれているこの草は何だ?ときくと、家の前に群生している背丈1mほどの芝の長いような細い草だという。
これは育てているのか?と聞くと、いや放っておけば勝手に生えるという。
後年であうことになる日本の茅とほぼ同じ扱いである。東京都の世田谷区で、小学校から中学校まで父の会社の社宅で育ち、
高校から大学までは、いわゆるメーカーハウスで育った私には、建材がわずか家の目の前に群生し、
それが刈り取られ屋根になっているとはなんとも驚きであった。
屋根の骨組みは垂木が放射状に配置され、そこにしなりの良い木の枝を横に繋いでいる。
周囲に生えている木々なら、なんでもよいというわけではない。しなり、腐りにくい木を、彼らは体験的に知っている。
ここでも先人たちのおおいなる実験結果を尊重しながら、再び「身体化された歴史」を発揮する。
鶏という即時的に消費されるものでなく、木や草葺き屋根など、10年単位でようやく分かる材料の耐久性の「善し悪し」を集落の中で共通の知識として持ち合わせている。
草葺き屋根はわずか一日〜二日でつくられるという。
シェコの村の周辺の環境に対して、「この木は建材さ」「この木は薪に使うよ」「この草は屋根に葺かれる。」などと判断がこの村内においては絶対的なのである。
「サスティナブル」とか「ヴァナキュラー」とか「ネイティブ」などというキーワードが席巻する遥か以前から、生態に依拠しながら、
シェコ族の村には草葺き民家があったし、きっといまも雨期の終わりに草を刈り取って乾期に干しているに違いない。
彼らは知らない。
彼らは、いま建築の世界で、「自然」や「環境」などということが叫ばれていることを知らない。
受け継いできた習慣として、草を刈りそれを屋根に葺くのだ。
「身体化された歴史」として、そして「歴史化された身体」をもつ主体として、繰り返し葺くのだ。
シェコの人々は、否応なくその自然環境に依拠せざるを得ない。そうでなくては生きていけないのだ。
土や風や、森や川をなくして生きてはいけないのだ。