エッセイ:エチオピア1
そのとき私は北東アフリカのエチオピアにいた。
2005年のことである。京都大学大学院人間環境学科にて文化人類学を専攻していた私は、エチオピアの西南部の最奥部シェコ族の村にきていた。
首都アジスアベバから、バスで丸二日かけ、地方都市ミザンテフェリに到着し、さらに乗り合いトラックの荷台で一日。
そこから獣道の山道を歩いて二日。標高1900mに位置する高原の中に、ガスも水道も電気もない山に囲まれたシェコの村があった。
私はミザンテフェリで聞き込みを開始し、市場の日にシェコの村から、村の唯一の換金作物である蜂蜜を売りにきた青年二人アドマスとタッカに出会った。
シェコの村までの山道を知っているというのだ。
さっそく彼らにガイドを頼み、ともに山道を歩き始めた。当初、彼らは朝から登れば、夕方には到着できるということであった。
装備を軽くするために水や食料を最小限におさえた。
しかし、登り始めてすぐに私は衝撃的な事実に気づいた。一日の行程というのは、彼らの鍛えられた足で一日の行程だったのである。
獣道どころではない。高原の森の中の道なき道を、杖をつきながら登っていくのである。
加えて1900mの標高は私の肺の限界値をとっくに凌駕していた。
↑道なき道。ほとんど薮をかき分けていく。
蟻の縦列で立ち止まるとあっというまに全身に群がり噛まれる。
あっというまに夕方になってしまった。
これはまずい。アドマスとタッカは村まであと4、5時間は歩かなくてはならないという。
これでは今日中に村に到着できないではないか。水もつきそうだし、食料もない。
不安げな私の表情をみて、アドマスはいった。「大丈夫だ。」せり出した岩場の陰に寝床を決め、枯れ木を集めマッチ一本であっという間に火を焚くと、彼は森の中にガサガサと入り込んでいった。
エンセーテという大きなニセバナナの茎をポキッと折ると、なんとみるみるうちに、茎の中から水がコップ一杯ぐらい出てくるではないか。
彼は茎の中に水が豊富に蓄えられていることを熟知していたのだ。
なんとも青々しいバナナの香りがする水である。あっという間に水筒一杯ぐらいになり、お湯を沸かせた。そして、こんどはタッカがガサガサっとブッシュの中に消えたと思うと、「これは食べられるぞ!」と、次々に野草を摘んで来たのだ。
サッと塩ゆでにして、わずかに残っていたマカロニを茹でて食べた。
彼らは森を知り尽くしていた。
彼らはいう。「僕らが市場に行くときは、何も持たないで往復するよ。」私は深く感動するとともに、全く何もできない自分を恥じた。
いや日本ですら森で同じ状況に追い込まれても、私は野草を摘んでくることなどできないだろう。
アドマスとタッカの民族的知識にあこがれを抱き、見たこともない満天の星空を眺めながら、岩場の陰に敷いた寝袋に身を滑らせた。
翌朝、ひたすら下り坂の道を歩くと、急に森が開けた。
シェコの集落に到着したのだ。
ぼろぼろのTシャツをきた少年たちは、好奇心にあふれた目でこちらをみながら、いまだ草でつくった腰簑をまとっている。
身体に装飾をほどこした女性は、疑念にあふれた目でこちらをみながら、見事な文様を体にまとっている。
85才のシャラ・グヌバイ村長は「おまえが外国人でみた2人目だ」といった。
若いときにイタリア人をみて以来二人目だそうだ。
1940年前後、イタリアにエチオピアは占領されていた史実を顧みると、実に私は外国人としておよそ65年ぶりに出くわしたということになる。
もちろん日本人は初めてだ。
「おまえはどこからきた?」「ジャパンだ」「そうか、ジャーマンか」「いや、ちがうジャパンだ。」「そうか、ターリア(イタリア)か。」
なんと素敵な問答でろうか。
ここである。こういうところに私は来たかったのである。
↑シャラ=グヌバイ村長