エッセイ8「タマとオクタマその2」20
瓦葺きの「入母屋御殿」
五日市といういわゆる東京郊外の風景を見渡してみると、「入母屋御殿」と呼ばれる瓦屋根の住宅が目に入ってくる。
(松村秀一「住宅という考え方—20世紀的住宅の系譜—」p191)
屋根の入母屋住宅など、私は小さいときから目にしていたし、関東のみならず、関西でもよく目にする形式である。
よく注意してみると、なかにはいくつもの入母屋屋根が複雑に重なり合った屋根も存在し、さながら城郭や社寺といった風格を備えている。
桂離宮に代表される様に、屋根が細かく複雑に流れる様に組み合わされる例は、明治以降の大きな邸宅や料亭に多数残されており、
鈴木博之はこうした明治以降の和風建築を「近代和風建築」とよんでいる。
こうした建築への憧れが、地方都市へもフィードバックされて、明治以降に、地方で蓄積した富を資産家は自己の邸宅に費やした。
材料の流通も拡大したところで、地産の材料で持って、びっくりするほど幅の広い一枚板の扉や机、驚く程に長い縁側の床板、
幾多の職人を召してつくらせた細工の細かい鴨居などに、明治の日本人が欧米とはまた違った方向を探った近代性があると指摘している。
(「都市のかなしみ」鈴木博之P255−260)
松村秀一によれば、こうした「近代和風建築」の遺伝子が、戦後の農村部において、入母屋を強調した「入母屋御殿」に引継がれてくと指摘する。
戦前では、地方の資産家の邸宅、老舗旅館やランドマーク的な建物にいくつか見られる程度で、一般住宅にはほとんどみることはなかった。
奥多摩の茅葺きが、養蚕で得た収益で、立派な破風をもった入母屋に改築して、より家風を豪壮にみせようとしたように、「入母屋」という
形式にはなにか、平安時代から御殿や城郭、社寺といった権威を象徴としていて、日本人の中には「威風」を感じさせるものがあるらしい。
戦後、養蚕で桑畑として使用していた農地を転用し、ブランド果樹や、ブランド野菜、ブランド米など農業で成功した人々は、
農村にこぞってこの瓦葺きの「入母屋御殿」を建てた。
そして、実はこの入母屋御殿は地域密着型として、地元の工務店が、木材をふんだんに使い、大工が内部の細工に至るまで腕によりを
かけた仕上がりを見せている。
戦後、その形式はほとんど似通っているものの、日本で全国的に広まった「農村ブランド住宅」は、「近代和風建築」や茅葺き民家にも
取り入られることで継続してきた入母屋の権威的イメージを受け継ぐものなのかもしれない。