エッセイ8「タマとオクタマその2」17
エッセイ7で、武蔵野の民家がなぜ寄せ棟造りなのかを明らかにした。
それは江戸に近く、開けた台地で大規模な農業を営むことができたため、養蚕に頼る必要がなかったからであった。
大規模な農地の間に民家が点在し、早くから会津や筑波の茅手たちに屋根葺きを依頼していたのだ。
武蔵野の風景とはこのようにして出来上がっていったと思われる。
また北関東や信州では、江戸時代より養蚕がさかんになり、民家を養蚕のために改築する現象がみられるようになった。
大きな破風、急峻な勾配の屋根、棟についた「櫓」と呼ばれる煙出し、平面を大きく切りかいた赤城型の寄せ棟、
これらはすべて採光と通風を屋根裏に促すためのものであった。
なぜ可喜庵が寄せ棟造りであったのか。
わたしは奥多摩のかんづくり荘の葺き替えを通して、逆照射するように、ようやく寄せ棟造りの屋根形式を理解したのである。