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エッセイ8「タマとオクタマその2」16

山間部では日照条件から養蚕において十分配慮し、また大きな破風板は家格の表現にもなっていて懸魚で飾られたり、お寺の本堂かと見まがう

程意匠が凝らされたものが登場している。

破風の装飾は、江戸時代後期まで役人方の家にのみ許されたらしく、上記の北関東における「せがい造り」の流行とあわせてみてみると、

明治以降封建的な村落の支配関係がゆるみ、かつ農民が力をつけた甲州から奥多摩にかけての証しだともいえる。

事実、山梨県の養蚕業も明治時代にはいって飛躍的に発展していて、1912年(明治45年)においては実に農家総戸数の実に92%が養蚕に

飼育に携わっている。

蚕の飼料となる桑畑は、戦中には食糧難から麦や芋畑に変貌し、戦後一時的に桑畑に戻るも、果樹が高騰する高度経済成長期である。

その後ぶどう畑や桃林に姿を変えて現在では地ワインの産地に転化されていくのである。

(坂本高雄「山梨の草葺き民家」p14−94参照)

 

 ここにも農民たちの生きる上での、その時々の状況に応じて民家を改築し、生業をあっさり変えて、しなやかに生きる姿が描かれている様に感じる。

そして、甲州東部に広がる入母屋造りは、東京都や神奈川県の県境を越えて、奥多摩文化圏とでも言えるかの様に、同じような壮麗な破風飾りを

もった入母屋、そして甲造りの屋根が点在している。

桧原村の記録をみると、全国的な養蚕の導入と呼応するかの様に、江戸時代後期中葉に、家屋構造の改築がはじまり、蚕室の新設、

入母屋を甲屋根に改造したり、思い切って切り妻に改造することもあったようである。

(「多摩のあゆみ」89号p44−54参照)

やはり、ここ奥多摩でも大規模な養蚕が行われていたらしく、なかには母屋4階まで飼育し、大量の繭を採取した例もあげられている。

 

  このような養蚕のための家屋改築は、江戸時代末から戦前にかけて全国的に流行した現象で、こと奥多摩に限っては戦後の林業の興隆によって、

茅を杉皮葺きに改めることがブームになったようである。(川島宙次「民家の旅」p6−p29参照)

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かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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