エッセイ8「タマとオクタマその2」11
明治中頃には日本の養蚕は興隆期を迎え、政府は外貨獲得基幹産業と位置づける様になる。
追い風をうけるように、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病の流行により、フランス、イギリスなどの養蚕業が壊滅し、
清では太平天国の乱などにより製糸業がふるわなくなり、1900年頃には中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になった。
こうして、農家の養蚕業がもたらした外貨の獲得は、日本の富国強兵の礎を担い、日露戦争における戦艦や近代兵器の購入を促したといっても過言ではない。
司馬遼太郎が「雑貨屋の帝国主義」と揶揄したように、養蚕業が生んだともいえる一時的な戦争勝利は、日本における過信を生み出し、
昭和前期のあの日本へと向かっていくのである。
一方、農村でも「養蚕バブル」に湧いていた。
大量の繭を工場にもっていけば、かなりの現金収入となる。
さらに、元来自宅で糸繰りをしていた女たちは、女工として製糸工場で雇われ、給与が支払われる様になる。
人間はお金を手にすると、生活の中に付加価値をつけ見栄えをよくしたくなるものである。
明治時代から大正時代かけて養蚕だけで生計をたてていく養蚕農家が出現し、一種豪農の装いを見せる様になった。
北関東では、「せがい造り」なる軒裏をきれいに見せる形式が広まっていく。
「せがい造り」とは軒下の柱から腕木をだして、ここに小天井を張り、軒裏を下から見たときの見栄えを良くしたものである。
江戸初期に京の町家で流行したらしいが、元来関東地方では名主以上の屋敷にしか許されていなかった形式であるが、明治初頭より、
その禁令破りをする農家が次々と出現し、巨大な入母屋、プラス「せがい造り」は成功した農家の証しとなり、養蚕のもたらした現金収入は、
村における名主—百姓といった支配関係を突き崩していったのである。