エッセイ8「タマとオクタマその2」5
しかし、2009年には、山城萱葺という京都の業者が、京都のヨシをトラックでもってきて、奥多摩の杉皮葺きの屋根を3分の1解体し、ヨシで葺き替えるのである。
私はこの事実に、奇妙なねじれを覚えた。
人間と環境の関係性が自然であるとき、場所としての「つち」っぽさを感じて、生業、暮らし、風景をひとつに串刺しにするような「生きた全体」を感じることができたのに、
このいまヨシで3分の1葺き替えるという事実には奇妙なねじれを感じざるを得ない。
もし、地の人間が、地の材料で建築をすることが、人間と環境の関係が自然であるとするならば、茅葺きが業者となった現在、遠い場所に、遠い出生地の材料
で葺くということは、生産や流通といった現在の経済のあり方の代表的な例で、逆説的にも民家のあり方からしたら何やら不自然なことであるのかもしれない。
そんなことを感じながらも、目の前の杉皮葺きの解体がはじまる。
貴重な杉皮葺きの解体である。
「古い屋根の解体は、前回葺いた職人と会話するチャンスだよ。だから闇雲にめくってはだめだ。」
親方は私が茅葺きをはじめて間もない頃に教えてくれた大事な言葉である。
カドの縄の取り方や茅の収め方、葺いてある茅の長さと順序、茅を抑えてある竹の縫い方、私たちとは違う方法だからこそ、屋根をめくるという作業は、
前の職人が残していってくれた技術の遺産から多くの示唆を得られる。
なぜなら、茅葺きは20年以上経過しないと、どのように変化していくのかわからないからだ。
葺き方によって屋根の耐用年数は大きくかわるが、古い茅をめくって新しい技術に出会うことで、現在の山城萱葺の葺き方を見直し、新しいヒントを提示してくれる。