エッセイ7「タマとオクタマその1」14
しかし、戦後になると移住者の増加に一層拍車がかかり、「東大和市では、20年程前(昭和40年代)には、数件の茅葺きをみることができたが、
今では全くその姿を消してしまった。
宅地化の進行に伴い、農地が次々とアパートやマンションに生まれ変わるのと並行して、これまで土地を提供した農家も、しゃれた造り
の住宅に姿をかえつつある。」(「多摩のあゆみ」第89号p22)
・可喜庵の葺き替え
鈴木社長と話を進めていくうちに、社長は今回の茅葺き屋根の葺き替えを通して、地域の結(ゆい)のようなものにしたいと提案してきた。
武蔵野の草葺きの民家も、労働交換や茅場の共同管理によって、維持されてきたはずである。
ニュータウン化してしまったいまこそ、地域の結のもう一度復活させたいと企画したのである。
親方は、これまでの体験会や、ワークショップの経験を生かし、可喜庵でも同じようなことができると応じ、茅葺き屋根の解体、
そして茅葺きの葺き体験と二段階に分けてワークショップを開くことになった。
体験会には学生から近所の家族、建築系の先生、そして名勝六義園お抱えの植木職人さんまで参加し、大賑わいの中での解体となった。
棟瓦をはずし、茅をめくって解体していくと、膨大な量のすすが飛散する。
屋根下地の上には真っ黒にすすけた小麦藁が葺いてあり、その上に茅が葺いてあった。
茅葺き屋根を解体すると、葺いてある材料によって当時の生業が伺える。
90才でなお現役の茅葺き職人、奈良の選定技術保持者隅田隆造氏によると、戦前「茅」というものは非常に貴重で、7年目にしてはじめて触ったという。
それまでは小麦藁葺きが一般的で、茅葺きなどはほとんどなかったという。
そこから鑑みると、可喜庵の煤けた小麦藁は50年前の葺き替え時には解体せず、茅をその小麦藁の上から葺いたものだと推測されるのだ。
そして小麦わらも解体すると、ついに下地が剥き出しになった。
50年前に煤けた小麦わらを解体していないのだとすると、約70年振りに下地が日の本にさらされたことになる。
下地はすべて竹で組まれ、驚いたことに、どこも腐食していなかった。