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エッセイ7「タマとオクタマその1」2

 東京というメガロシティで、まさに井戸の中の蛙だった高校生の自分と、エチオピアの山奥に滞在し、茅葺きの仕事をはじめた自分を重ね合わせると、

不思議なことに目に映る車窓の風景がまるで違うものに感じる。

何が違うのであろうか。

高架化した小田急線のおかげで地平線まで埋め尽くす住居、ビル、車がみえる。

いわゆる東京の雑然とした風景だ。

私が大学生まで過ごし経堂のまちを思い出してみよう。

当時まだ高架化していなかった経堂駅は、ピーコックと呼ばれるスーパーとボーリング場とテニスコートが一帯となったビルの上に建つボーリングの

ピンに象徴されていた。

駅の南と西側に長い商店街が続いており、私が小学生の頃は、西側の「スズラン通り」の商店街には、中華料理屋、駄菓子屋、畳屋、米屋、靴屋、電気屋、

ハンコ屋、プラモデル屋など、個人商店が軒を連ねて、小学校の同級生にはこうした個人商店の子供たちがたくさんいた。

はじめてコンビニができたのがたしか小学校5年生のころだと記憶している。

ローソンができた!と小学生の間でも話題になり、シーチキンのおにぎりや、おでんに舌鼓を打ったものだ。

南側の商店街は、東京農大の最寄り駅ということもあり、喫茶店、居酒屋、カラオケや牛丼屋など、学生向けの店が当時から立ち並び、幼い私にとっては

「大人の街」という感覚でみていた。

西側のスズラン通りは、生活臭が深くたちこめて、小学生の私にも暮らしの延長として、通りやすかったことを記憶している。

それから20年が経過すると、当時では想像もできなかったおしゃれなカフェや、雑貨店が西側のスズラン通りにもできている。

そして、スズラン通りから一本住宅街に入ると、くすんだ木材と漆喰壁で作られた昭和の家の庭に桜が植えられて、趣味のよい路地花壇が添えられているかと

思いきや、隣の敷地には欧米と見まがう程の高級そうなマンションがあり、向こうにはどこぞの建築がたてた真っ白な箱のような家が建ち、その間には

お稲荷様の小さな祠が祀ってある。

経堂の片隅の住宅街からみえるのは、20年の間に、パッチワーク状に変化し、異質な空気をもった建築の乱立の姿である。

職人のヘルメット
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職人が綴ったコラム

かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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