エッセイ6「場所ということ」9
朝から晩まで10〜15人で過ごすということは、もちろんプライベートやプライバシーなどほとんどない。
私の場合、実家には「自分の部屋」があり、10代から20代の前半までそこで多くの時間を費やした。
自分の部屋は自分だけの時間を、自分だけの趣味に費やしてよかった。
一種の私にとっての巣ごもりであり、外界からの影響を免れた聖域であった。
育ちとは日々の生活の積み重なりであり、習慣であり、人のものの考え方や見方、身体技法までをも規定する。
育ちにはなかなか抗えない。
私は出張という共同生活に最初は戸惑いを感じた。
私にとって、大学であれ、アルバイトや仕事であれ、労働とはイエの外で行う近代的労働であった。
社会とはイエの外で構築され、家族や兄弟、そして私の部屋とは完全にプライベートに属するものであり、イエの外に出ることと、イエの中に帰宅することは
社会と私的領域を往復することであり、一日の生活リズムはその中で出来ていた。
ところが出張中の共同生活とは、近代生活的な意味における「私」の領域がほとんど存在しない。
そのことに戸惑ったし、どうも落ち着かない。
なかなか慣れないし、心が休まらない気がするのだ。
だがしかしよく考えてみると、「私」の領域など近代がはじまるまで、ほとんどどこにもなかったはずだ。
かつて農村の民家では、藁を中心に生活が展開していた。
子供が最初に覚える仕事は「藁打ち」と「藁綯い」であった。
「子供たちにとっては、藁打ちが最初に覚えなければならない家の仕事であった。
10歳くらいになると、子供たちは、家の掃除、ランプ磨き、山からの柴負い、薪や草の背負い運搬、苗や稲運び、水車通いと称する水車で行う穀物の
運搬など、各種の家事や労働を分担したが、藁打ちは一番最初に身につけなければならない大切な仕事であった。」(7)
藁打ちをしているうちに、傍で縄綯いや藁細工をしている父や母の姿をみて真似ていく。
藁を通したコミュニケーションの場であり、それは藁という仕事を通した社会の一端として家族が存在していた。
そして「縄綯い作業は子供のうちから始められた。
子供たちは冬場の日課として父母と共に連日のように縄綯い作業を行った。
やがて子供たちは自分の履物を作れるようになった。
こうしたものづくりの技術伝承は、決して強制的、意識的になされたのではない。
おとなたちの仲間入りをしていく間に、子供たちによって自然のうちに習得されていったのである。」(8)
(7)「藁」宮崎清 法政大学出版局 p281
(8)前喝書 p337