エッセイ6「場所ということ」4
ブルーノ・タウトは桂離宮を見たときに、すでに人間と環境の自然な「関係性」について語っていた。
自分という人間が、桂離宮の月見の縁、池、亀、船着き場、ツツジ、東屋に視線を移していくと、庭園や建物がまるで環境の網の目の中で
存在しているように感じるという。
桂離宮の「この奇跡の神髄は、関係の様式—いわば建築せられた相互的関係にある」(2)という。
もはや建築は、人間による主体的な建物ではなく、雨が降り、虹がかかり、靄がかかり、空が青くなるように、環境と密接な関係を持ちながら存在するのだという。
まるで、建物がつちから生えているようではないか。
土からニョキニョキと芽が出るように、建築という花が咲いている。
非直線的で、非立体的だ。
もっといえば、不規則的で、偶発的で、粒子的なものである。
景観に溶け込んでいると私たちが感じるとき、建物は環境との密接な関係が結ばれているのであり、モダニズムの建築が世界から切り離され、
孤立した、形態の美しさ、デザインの前衛さといった視覚的建物を目指していたならば、「つちとの関係」という全体的関係はいままさに重要であると考えられる。
それでは、ブルーノ・タウトはなぜ桂離宮が環境と「自然な関係」を結んでいると感じたのであろう。
それはきっと「場所」にある。
生産される素材、素材を加工する技術、建築する方法、それぞれがどれを切っても離されることなく、その「場所」に根ざしているからこそ
感じうる人間と環境の自然な関係である。
だから、「場所とは単なる自然景観ではない。場所とは様々な素材であり、素材を中心にして展開される生活そのものである。
生産という行為を通じて、素材と世界が一つに串刺しされるのである。」(3)
景観に馴染むかどうかはひとつの結果に過ぎない。
重要なことは、生活レベル、日々の営みのレベルから生まれるような根っこの建築である。
(2)「日本美の再発見」ブルーノ・タウト 岩波新書 p41
(3)「自然な建築」隈研吾 岩波新書 p15