エッセイ6「場所ということ」2
インディアンが山からみえた近代のきらびやかな夜景。
それはマムシが近代に憧れたあの景色と同じだったのであろうか?
「いつかソファに座ってアイスクリームを食べてテレビをみてみたいものだわ」(シェコの村の少女)、
「伝統」に生きるシェコの村の少女はいつか近代生活に入ることを夢見る。
マムシもナイフを捨てて、スーパーで捌かれてパックされた鶏肉を買う方がよいというのだろうか?
便利である。
苦労はできるだけない方がよい。
貨幣で交換できればそれでよい。
果たしてカリフォルニアのインディアンもその後は「ゆとりある」近代生活を楽しんでいたのだろうか。
インディアンは守衛として数年働くと、近代生活には何か「伝統」から欠落したものを感じる。
本来「外部」であったはずの近代生活を送ると、彼の目には奇異に映ることがあった。
この違和感は何であろう。
彼は気づいた。
さざ波の立たない日常。
門番をしながら毎日みる彼が狩りをしたあの山。
それらを見つめながら感じる、このむず痒さは一体なんだろう?
彼はふと気づいた。
近代生活には、巧妙に死が隠蔽されているということを。
たとえば、鶏を捌くという行為そのものに必ず付きまとう死という問題。
この問題がスーパーマーケットという経済の中の商品に様変わりすることで隠蔽されてしまっている。
一方、マムシであったならば、シェコの社会で幼いときから生と死の意味を、ナイフを通して学んでいく。
「これが死ぬことだ。
だから、これが生きることだ。」
身体の中に感覚として自然に生と死が刻まれてゆく。
いわゆる「伝統」とは、エチオピアでは「歴史」と同義であった。
伝統の積み重なりがイコール歴史であり、またその反対でもある。
こうした「伝統=歴史」の社会では、死が剥き出しのままである。
シェコの村では生けるものすべてにまつわる死が、あちらこちらに剥き出しのまま放置されている。
鶏が「肉」となるには死を目の当たりにしなくてはならないのである。
シェコの村では、幼い頃からみなナイフを振り回す。
だがしかし、 わけのわからない犯罪など生まれない。
そういった衝動を抑止する要因は様々に考えられようが、幼い頃から身体を通して「死」を実感しているということが一因となっているはずだ。
そして無数の祖先の死によって自分は生かされていくことを学んでいく。
生に対して謙虚である。
捌かれる鶏の断末魔を聞いて、そして首からしたたる血を見て私が絶叫していると、子供たちはさも当然のような顔をして得意げである。
私はシェコの村で滞在しているとき、子供たちの屈託のない笑顔を見ては、「生の充実」のようなもの、もっといえば「生の横溢」のようなものを感じていた。