エッセイ6「場所ということ」1
20世紀初頭のアメリカ西部における出来事だ。
「それは、まだ野性的な状態にあったカリフォルニアのインディアン諸部族が殲滅された中で、唯一人、奇跡的に生き残った一人のインディアンの男の逸話である。
彼は何年もの間、大都会の近くで誰にも知られずに、石を打ちかいて矢尻を作り、それで狩りをしながら生きていた。
しかしながら、少しずつ獲物は少なくなった。
或る日人々は、このインディアンが、町の入り口で、裸で飢え死にしそうになっているのを見つけた。
彼は、その後カリフォルニア大学の守衛として平穏にその生涯を終えた。」(1)
ひとりのインディアンの何気ない物語は、重要な示唆を含んでいる。
「伝統」と「近代」を考えるとき、彼はその二つの世界の狭間を生きたことになる。
一見すると、かれは鮮やかに、大学の守衛という近代の仕事に順応していったフットワークの軽快さを感じる。
だがしかし、狩りという「伝統」を諦め、守衛として生きると決めたときの心の葛藤を想像してみたい。
執拗に「伝統」にしがみつき、やがてその方法では生きられないと悟ると、彼は「生きるために」近代生活を選択する。
守衛として矢尻を携えている姿を想像してみたいものだが、それよりもその矢尻を生きるために使用することを止めたその事実が重要である。
きっと彼は狩猟をしながら押し寄せる近代生活を森の陰から覗き見ていたに違いない。
一日いつ襲われるかもわからない森を彷徨って漸く手に入れる肉、それをいとも簡単に貨幣という魔術的なもので交換して手に入れるスーパーマーケットの
仕組みを垣間みて驚きを隠せなかったに違いない。
いったい外の世界で何が起こっているのだ。
彼にとっては、近代生活は完全に外部に位置するものであった。
だがしかし、やがて近代生活は大津波となって山と川を飲み込み、もはやひとりのインディアンを完全に取り囲んでいた。
彼はどう感じていたのであろう。
彼は苦悩したのだろうか?
ふるさとの山を捨てて、都会に入ることに何か抵抗はなかったのだろうか?
そして彼はついに「制服」に袖を通した。
頑強になっていた自分を嘲笑うかのように、彼は守衛となって、毎日カリフォルニア大学の門から、今度は逆に自分の住んでいた故郷の山を遠くに見つめる。
「これが生きるってことさ。」
(1)「悲しき熱帯」レヴィ=ストロース 川田順造訳 中央公論社 p92