エッセイ5「土から屋根に、屋根にから土に」4
わたしは、とある満月の夜、蜂蜜の収穫に感謝し祝う祭りがあると聞き、村の中心の広場に訪れた。
近づくにつれて、ものすごい声量の歌が幾重にも重なりハーモニーを奏でている。
広場にでて立ちすくむだけだ。
子供のパート、女性のパート、男性のパートに分かれて、三重にも四重にも同心円を描きながらぐるぐると回りながら歌っている。
それぞれのパートが遠くに行っては近くにやってくる。
渦巻くようなハーモニーの波に加えて、周囲の森が天然のディレイ効果を生み、さらに満月の青白い光が歌を包み込む。
わたしは、もうすっかり現実のことなのか、夢のことなのか判別がつかないまま、呆然としながらある強力な感覚に襲われた。
シェコの歌は「土から生えている」のだ。
「土から生える」という表現が最もしっくりくるように思われた。
森と精霊という環境から、歌がにょきにょきと生まれでているのである。
翌日、きつい日差しのなか村を散歩していると、「土から生える」のは歌だけではないことに気づく。
村のあちこちに立てかけられている農具、山から掘り出したジネンジョ、草で編んだ腰簑、草葺き民家、彼らの生活は「土から生えている」とさえ描写できるのである。
すべての日用雑貨、すべての衣服、すべての食事、すべての住まいは、その土地で生まれた素材によって、その素材の原型が剥き出しになったまま作られるのだ。
そして、その会話、言葉すらも「土から生えている」ように感じられた。
シェコの村で育ち、ナイフの技術を継承したマムシが発する言葉は、歴史=文化に裏打ちされたという意味において、まさに「土から生えている」のだと
考え直すようになった。
ベンヤミンの言う「ほんもの」は、「土から生える」という意味と近い。
シェコの人々は、「いま・ここ」という一回限り生起する現象に、常に囲まれて生きていた。
わたしはシェコの村に滞在したとき、彼らの生活の隅々まで「土から生えている」と感じたのであった。
いっぽう私たちの生活はどうであろう。どこに「土から生えた」ものがあるだろう。
「いま・ここ」にしか生起しないものはどこにあるだろう。
「コピー」に常に囲まれていきる私たちが、こうして「ほんもの」に触れるがために、非日常空間として「休日」や「余暇」を費やす。
いっぽうで、シェコの人々は、「ほんもの」の源泉=森に感謝するために非日常空間を創出する。
こうしたシェコと私たちの生活の深い溝には、過去と断ち切りながら生活の隅々まで再編化するという未曾有の近代化プロジェクトの結末が横たわって
いることはいうまでもない。
そう、歴史を断絶する近代化の運動とは、言葉をかえれば、あらゆる次元で、「土から生えていた」私たちの生活を、文化を、歴史を、言葉を、
「土から断絶する」とも言い換えられると指摘できよう。