エッセイ5「土から屋根に、屋根にから土に」2
複製技術は、オリジナルがその存在の場とともに歩んできた時間、つまり「いま・ここ」にしかないという一回性を無視して、「いつでもどこでも」コピーして
流通させるという技術のことであると指摘されている。
「複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。複製技術は、これまでの一回限りの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、
こうして作られた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある、受けてのほうに近づけることによって、一種のアクチュアリティを生み出している。」
ベンヤミンは、コピー品はオリジナルを伝統から引き離してしまうと述べている。
竹とんぼが電子ソフトに置き換えられたことと同義である。
そして、この伝統からの乖離、複製品への置換には、近代化の一つの側面「歴史からの断絶」がその背景に潜んでいる。
「いま・ここ」という一回限りの現象、そうした一回限りの現象の無尽の積み重ねが「歴史」と呼ばれていたものであった。
こうした「歴史」=一回限りの「いま・ここ」が剥奪され、ちぐはぐにコラージュされた現代生活は、複製技術の発達による大量のコピー商品が出回ることで形成され、
ベンヤミンの言う「ほんもの」がすっかり喪失してしまっている。
音楽はレコード、CDという複製媒体としてコピーされ、ついにはデータファイルという目にうつらない電子媒体にまで変化した。
作り手の、生きてきた背景や歴史を無視して、音楽という音だけを剥がしとる。
今度は、音楽のコピーと大量配布だ。
もはや、何がオリジナルで、何が「ほんもの」なのか区別が難しく、本来オリジナルに与えられるべき著作権はもはや形骸化してしまった。
iPodなどの電子端末が、音楽や映像のコピーを個人単位で可能にし、その手軽さがオリジナルをすっかり凌駕し、オリジナルが大海の一滴となるまで
量的にコピーが出回ると、もはや「ほんもの」という概念は消え去る。
さらに衣服の量産化。それなりによい着心地で、それなりの品質を求めるなら街のあちらこちらにある量販洋品店で十分だ。
ああ、好きなスポーツの中継を見逃してしまった。
いやいや大丈夫。DVDに録画(コピー)してあるからね。
お腹がすいた。そうだコンビニでおにぎり(食の複製?)でも食べよう。
私たちの生活は、コピー技術によって成り立っていると行っても過言ではない。
いや、むしろ「いつでも・どこでも」というコピーのもつ安心感に身を委ねて生きているとさえ言えるのではないか。
だからこそ、人々は一回限りの「いま・ここ」という劇的な体験=「歴史」の垣間見える場に触れたくなる。
コピーに囲まれた日常空間から脱して、一回限りしか起こりえない「ほんもの」の音楽ライブに出かける。
私という一回限りの主体のために仕立てられた「一回限りの服」に袖を通したい。
やっぱり「生」で観るのは違うよね。とスポーツ観戦に出かける。
捕れたての魚のなんとおいしいこと!いやあ「ほんもの味」は違うね。とわざわざ新鮮なお店にでかける。
日常の喧噪から離れて、自然に触れよう。あの峰へ、あの谷へ。そこには思考は要らない。