エッセイ4 野生の「しなり」9
ピグミーの音楽を五線譜で表現でないように、非対称や矛盾を含んだ茅葺き屋根を設計図に起こすということは不可能に近い。
茅葺き屋根の仕事には基本的には設計図がないのである。
たとえば、東北の茅葺き屋根の下地をみてみよう。
竹が生えない寒冷地では、雑木が下地を構成していた。
グニャグニャにまがった雑木が垂木として形成されている。
どの部分をとっても屋根としての構造を説明できない。
全体としてようやく屋根の構造をもちうる「野生の思考」である。
同じように、完成された全体のイメージは親方や職人の頭のなかにしかない。
設計図自体、じつは直線と直線の交叉、規則的な曲線で成り立つという暗黙裏の前提があり、茅のもつ不規則性を表現するには極めて難しいのである。
現代において設計図というものは建築の仕事を、合理的に、効率よく進める上で必要不可欠のものである。
だがしかし、この設計図においては、茅のような矛盾や、不規則は許されない、あるいは表現され得ないのだ。
そうなったらもちろん仕事は失敗する。
20世紀はこうした図面をもとに仕事が行われてきた。
設計する側と、思考する側の分離という現象は、極めて20世紀的であり、ここでも設計と施工の関係が分断される。
予算の中で「とりあえずの」図面を設計側がこしらえる。
そのまま現場になだれ込む。
「いや、この設計図では、ちょっと仕事に差し支えます。」というものなら、「工事費がアップします。工期に間に合いません。誰が責任をとるんですか。」となる。
かつては、家の躯体は大工さん、屋根は下地から屋根屋さんと、棟梁が分かれていた。
それぞれの棟梁は、それぞれの頭に完成したイメージを描き、これを設計図として工事を進めていた。
「野生の思考」に、近代的な「設計図」が介入することで、建物をつくる仕事に奇妙なねじれをかかえてしまっているのだ。