エッセイ4 野生の「しなり」7
このようにして、日曜大工の多くが一過性のもので、個人的なものであるのに対して、茅葺き屋根の技術は、長い時間をかけて技術が継承され、熟成されてきた
という意味において、ブリコラージュが洗練された姿として見えてくる。
それは次の事実からも裏付けられる。「たたく、ゆう、ぬう、むすぶ、ならべる、きる、ふむ」、茅葺きに必要な動作は一見単純なものに聞こえる。
がしかし、実はその単純にみえる動作の中に、それぞれ深みとコツをもった動作が多く含まれている。
藁縄で結ぶときのちょっとしたコツ、「ひとにぎり」の厚みで並べるコツ、押さえた竹を踏むときのコツ、年少の頃からすでに行っているそれぞれの動作を
もう少し改善しコツをつかむことで、動作に奥行きと深みを与えられる。
動きに無駄が落ちてゆき、少ない動きで、多くの成果を得られるようになるのだ。
これは、単なるブリコラージュではない。
日曜大工を深化させ、洗練させ、何世代に渡って継承されることで、やっと獲得されるようなブリコラージュである。
こうした態度は「疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目覚めた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。」
(1)ブリコラージュの洗練は、「野生の思考」の輝かしい側面を教えてくれる。
一掴みの茅はそれぞれ一本たりとも同じものはなく、規格化された現代の建築パーツからみれば、いわば、矛盾だらけのものである。
しかし、それが3尺6尺と交互におかれ、もっとも「しなるポイント」に竹で抑えられることで、一段「全体として」おさまり、一本一本の曲がりや、反りといった
矛盾はすべて解消される。
こうして、わたしは茅葺きの思考の根幹に触れた気がする。
それは、本来自然のものがもつ計算できない矛盾を矛盾とせず、「矛盾を飲み込んで全体を照らす思考」によって形作られているということだ。
一本として同じ形のない茅である。
規格化された工業製品ではない。
どんなに「ひとつかみ」を正確に葺こうとも、茅が本来持っている、微妙な反り、ねじれ、まがりが作用し、屋根の表面には不規則の孔が生まれる。
逆に、たとえばしなるパスタのようなものを思い浮かべ、量産された3尺と6尺をならべるとみごとに隙間なくぎっしり詰まるであろう。