エッセイ3「別嬪さん10」
だがしかし、なにかまだ足りない。
皮肉にも、そうしたテレビやネットのような刹那的な歴史感覚では、歴史は身体化され得ない。
わたしたちの日々の暮らしや営みの中では、歴史的連続体としての自覚がなかなか得られない。
そこで、マムシのような劇的な体験を求めて人々は旅に出る。
圧倒的な非日常空間として旅に出ることで、日常で得られない視点を獲得する。
日常では得られない自分自身を発見する。
サバンナに沈む夕日を背景に動物のシルエットが浮かぶ。
極寒の白一色の空間に、無から浮かぶ何かを見つめる。
サドゥと共に自らに対して苦行を課す。
遊牧民のように移動を日常とすることで、定住化した日常という一点から浮遊し、文字通り各国のリアルな生きた「歴史」に触れる。
この「旅」が、単なる「旅行」を超えて、大人にための通過儀礼を果たしているという側面も語りえる。
マムシのような、劇的な通過儀礼の不在を知った若者たちは、旅をすることで精神的な苦痛を体験し、それまでの自分からの逸脱をめざす。
若者たちは歴史感覚を取り戻しに旅に出るといってもよい。
若者たちは大人に成るために、一人前になるために自ら苦行を課すことで旅に出るといってもよい。
その道中きっと聞かれるであろう。
「おまえの宗教はなんだ?」「おまえの文化はなんだ?」こうした問答を繰り返すことで、出自の社会を、ようやく外から直面することになる。
マムシが経験した社会からの逸脱→異界での苦行→社会への復帰という流れは、旅に出て、非日常を体験し、社会に戻る=働くという若者の構図とよく似ている。
だがしかし、旅だけで本当に大人になれるだろうか?
よく考えてみると、旅に出るというその方法そのものが、歴史的に受け継がれた方法ではなく、主体的に、個人的に行われていることが極めて現代的であり、
「個性化社会」を裏付けるものだとみえてくる。
むしろ、大切なことは、「個性化社会」をこえて、歴史感覚を身につけ、それを使命として受け入れ、自分以外の自分自身を新たな自分として迎え入れ、
自分の中心をみずから脱却していくこと。
これが「大人になる」ということに重要なのではないか。
茅葺き屋根の「丁稚修行」のヒントはここにあると私は考える。
「一人前」になるとは、茅葺き屋根を技術的に一人前に葺けるということだけではなく、どうやら歴史感覚をみにつけ、より大きな枠組みで自己を捉え直し、
それまでの自分以外の自分になっていくこと、その内面的成長に意図があると思われる。
もはや職人として後戻りできない覚悟であり、現代社会の情報、物流という様々な刹那的誘惑に対する拒絶でもあり、あきらめでもある。
こうして修行のあいだに、そぎ落とされていった身体には、茅葺き屋根が残る。
親方、先輩がた、家族に支えられ一人では生きられないことを実感する。
結果として他者に対する敬意、自身にたいする謙遜も生まれてくる。
こうしてみてみると、「丁稚制度」とは、社会の中で一人前として、大人として生きていくための文化的装置なのではないかと考えら得るのだ。
その過程で、茅の「相対化の中の絶対化」が必要だ。
さらにそこには前述した「仕事を盗む」ことが必要だし、「創造力」を働かせて、日々茅と向き合わなくてはならない。
これが、「丁稚」における、一つの社会の、そのまたひとつの社会の中で、「一人前」になっていく過程であった。
茅葺き屋根の職人という歴史=文化を受け継ぐ丁稚修行だからこそ、現代社会に取って一縷の意義があるように思われるのだ。