エッセイ3「別嬪さん6」
それは、歴史が知っているからだ。
歴史が経験していることなのだから、その価値判断が絶対的なのである。
この「ひとつかみ」の量は、わたしの手の一掴みではない。
先人たちの「ひとつかみ」なのである。
つまり、ひとりの人間が生きた間に身体を通して獲得した技術を越えて、茅葺きの受け継がれた歴史という悠久の時の流れによって支えられているのである。
個人史をこえた判断、歴史に支えられた重み、だから身体を通して茅葺き屋根を獲得したことは、絶対的=決定論的に語りうるのだ。
ネットの検索や、雑誌の情報、はやりのドラマからでは決して得られない絶対的な言語は、脳の中からではなく、歴史の奥から湧き立つ装飾のない言葉である。
湧き立つ故に絶対的=決定的である。きっとマムシはこのように言うだろう。
「鶏を捌くときのナイフの入れ方はなんでも聞いてくれよ!」
祖先から受け継いだナイフの技法は、マムシの中で葛藤し創造された。
その技法を年少のものに教えるその言説は、その歴史の中においては絶対的である。
先人からの屋根葺きを受け継ぎ、そこに自分なりの創意をくわえ改革する親方の言説は、その社会においては絶対的である。
再び、ここで「歴史化された身体」が浮上してくる。
「歴史化された身体」を通して表象される言葉は、とある範囲の社会の中では絶対的に表象されることが可能なのである。
それぞれの成員が、それぞれの社会の歴史=文化の中で、それぞれの仕事において、絶対的であるという意味において。
いまここで、「帝国」が何を失ったかはっきりとした。
それは歴史である。「帝国」は世界に点在するあらゆるローカルな小さな「歴史」を断絶し宙づりにすることで「帝国」への編入を次々に可能にしていたのだった。
大量のモノと情報を流し込むことで、一種の陶酔感を与えアメーバのように広がって覆い尽くしていく。
歴史を失った「帝国」の成員はもはや絶対的に語ることができなくなってしまう。なぜならば、「歴史化された身体」が失われてしまったからだ。
しかし、茅葺き屋根の修行を通して、歴史がすっかり断絶されてしまったと思われた「帝国」において、わたしは、僅かながら「歴史化された身体」が息づく胎動を感じることができた。
親方のいう「相対性の中の絶対化」という訓練をまとめると、次のように言える。
「絶対性」という言葉は、形而上学的な「絶対的真理」を意味するものではない。
歴史のひとつを身体化することで、歴史を後ろ盾にした言葉を獲得できるということである。
それは、普遍を目指したものや、彼岸をめざしたものではない。
むしろ、限りなく自分自身に歴史を引き寄せる過程こそが大切なのではないか。
もう一度「歴史化された身体」を獲得する過程こそが大切なのではないか。
きっと、その過程の中で職業としての覚悟がうまれ、生きることの渇望を感じ、よりよい仕事への創造力を生むだろう。
そういった心理的葛藤の末によやく獲得できるような「歴史化された身体」は、同時にその仕事や、その仕事を生み出した社会の、「ただしさ」を身につけてくれさえする。
技術的な「ただしさ」はもちろん、人間としての振る舞い、モラル、倫理的「ただしさ」も体得する過程なのではないか。
そこには頭をこねくり回して到達することのできない「ただしさ」を体得している。
親方のいう「相対性の中の絶対化」とは、「丁稚」という、人間を育てる上でのひとつの大きなヒントとなるし、「帝国」に生きるものへの大きなヒントにもなるのだ。