エッセイ2「仕事を盗む7」
それでは、他者と関わらないで人は生きられるだろうか?
「自由とは他者が完全に存在しない状態である」としても、山に隠遁して、無人島に暮らしたとしても、非政治的主体でいることは可能だろうか?
やはり「帝国」は忍び寄る地球のどこにいても、「帝国」はいつか必ずやってくるのだ。
ネグリはそのように予見する。
なぜなら、人は他者とは関わらないでは生きていけるだろうか?
いや、私たちはコミュニケーションを欲する。
人の温もりを欲する。寒くては生きていけないのだ。
つまり、私たちの日常に、生きること自体に政治が染み付いているということだ。
「帝国」は人間の当然の帰結だ。「帝国」以前に、人間の本性が「帝国」を生み出してしまっているのだ。
21世紀にはいり、世界のあらゆる所で転換期をむかえている。
もはや、「国家」という枠組みでは、政治的主体としての人間を意義付けできなくなっている。
移民が増加した。国際結婚も増えた。ネットで簡単によその国を見ることができる。
飛行機で安価で旅行ができる時代になった。
もはや人の動きは、国家という枠組みに限定されない。
そして人の頭の中身も、国籍に限定されることなく多様化している。
「帝国」は明確な誕生日をもたない。
「帝国」はすでに近代が始まったときに、その自然的帰結として予見するかのように世界に内在化されていたのだという。
それでは、このアメーバ「帝国」の物語は、世界をやがて覆い尽くすだけ覆い尽くして、世界を一元化していくだけの終末論なのであろうか?
ネグリは、ここにマッタをかける。
実は、この体制に対抗し、異化する存在がいるという。
それは「マルチチュード」だ。
マルチチュードは「多種多様態であり、もろもろの特異性からなる平面、諸関係からなる開かれた集合体」である。
マルチチュードは、「帝国」に抵抗し、戦うがために組織化し、潜航する。
わたしは、巨大な生産に対するアンチテーゼを唱えるかの様に、小さな「手作りの」家具店や、有機栽培の畑からとれた野菜を売る八百屋、
大型ショッピングモールの脇に肩身を狭くしながら点在する地元の店をみるとき、何かしら「マルチチュード」の可能性を感じる。
巨大な生産体制に回収されない小さな粒としてのマルチチュードは、「帝国」を異化する力を持つ様に感じる。
シェコの村で出会ったマムシ、アドマス、タッカ、シャラ=グヌバイ村長、みな「帝国」を異化するマルチチュードの可能性を感じる。
日本に戻って出会った茅葺き職人、茅葺きの家に住む人々との交流を通して、みな近代以降展開してきた「帝国」とは別の道を感じさせる。
だがしかし、ネグリは、皮肉にも、「マルチチュード」の行為自体、「帝国」の多様性の拡張に寄与し、多様性のなかの秩序を前提とする
「帝国」体制の安定化に繋がってしまうという。
グローバリゼーションは止むことなく、地球の果てまですすみ、土を変質し、山を飲み込み、川の流れを変えるのだというのだ。
私がシェコの村で聞こえた「忍びよるグローバリゼーションの足音」とは、「帝国」の影だったのだろうか?
シェコの人々は、一元的な価値を押し広げる近代性を異化する存在であるはずだった。
だがしかし、現実には、そのシェコの人々はラジオの向こうの「きらびやかな世界」にあこがれていた。
それは他ならぬ「帝国」の夜景であったのではないか?
マムシの華麗なナイフさばきは、どんなに創造力を働かせ、過去から受け継いだ技術を改良しようと、数十年後には便利な近代的機械にとってかわられるのだろうか?
マルチチュードとしての存在であったはずのシェコの人々は「帝国」を押し広げる多様性の一部を形成するのにすぎない些末な存在なのだろうか?
だが私はそれだけでは終わらないと思う。
アメーバのような「帝国」と同じような形をもちながら、「創造力」が湧き立つ襞としての世界に、わたしは未来のビジョンを託してみたい。
先に述べたように、世界の至る所で、マルチチュードたちが、創造力を発揮しているではないか。
シェコのマムシが獲得したナイフの中に発見した心理的葛藤や、茅葺き屋根で私が体験した心理的葛藤が、歴史を作ると考察したとき、
その裏で働いた「創造力」が「帝国」を異化する源泉となるように感じるのだ。
「マルチチュード」という概念が提出されてから、わたしは、「帝国」という世界的潮流のなかで、茅葺きの仕事を考えなくてはならないと感じるようになった。
ネグリは、すべてのマルチチュードは「帝国」に再編されるという。
それでは果たして、辺境の民、遊牧の人々、彼らは民族も、所属も、名前ももたない漠とした存在なのであろうか。
だがそれでは「日本」について語ることは無意味になってしまう。
それでは、伝統や文化について語ることは無意味になってしまう。
いまこそ茅葺きを軸にして「帝国」という未曾有の超国家的システムを考え直し、そして茅葺きの可能性を探ることが可能だと思われるのだ。
私は、茅葺きの仕事に携わり、施主の方々や先輩職人たちとの会話を重ねるにつれ、茅葺き屋根には、社会学的、民俗学的、人類学的接点が多分に含まれ、
議論の裾野の広さを感じるようになっていった。
その会話の中には、「帝国」に抗するヒントがたくさん含まれ、未来への光を当ててくれるようにも感じた。
それは「帝国」がアメーバ状に世界に広がる姿とは、また別の未来の姿である。「バックトゥザフューチャー」はもうはじまったのだ。
これからのエッセイを書いていく上で、「帝国」のなかで、「茅葺き屋根」「茅葺き職人」を考えていかなくてはならないと感じるようになったのである。