エッセイ:エチオピア5
2005年10月のことである。
それは予期しない形で遭遇した。
京都のとあるカフェにおいてあったチラシが目に入る。
「ヨーロッパの茅葺きの事例報告」と題された座談会があるというのだ。
座談会やシンポジウムに積極的に顔を出す性格ではない私は、なぜかそのときは行こうと思ったのだ。
神戸で茅葺きの親方をしていた「茅葺屋」塩澤実さんの公演であった。
なんでもヨーロッパの茅葺きの現状を視察してまわった研修の報告会らしい。
彼は公演の結びにこう語った。
「12月より神戸市北区で茅葺き屋根の新築工事があります。現在バイトを募集しています。」
私は次の日即座にバイトをしたい意思を伝え、会っていただけないかとも懇願した。
塩澤さんはこころよく引き受けてくれた。
そしてその場でバイトをさせてもらうことも了承して頂いた。
卒業間近の12月と1月、修士論文をしあげながら、週一回、二回のペースで茅葺きの仕事を始めたのである。
私の仕事は、屋根の下で切った茅を担いで屋根の上にあげること。
空いた時間は茅クズを掃除することであった。冬空の寒い日に、茅まみれの埃まみれになるのだ。
「おおこの感じ。この感じ。これはシェコの村の匂いがするぞ」浮かれやすい私は茅葺き屋根の仕事から、なにかしらアフリカの香りを嗅ぎ取っていた。
そして同時にエチオピアでまざまざと見せつけられた「バハル」を感じ始めていた。
どうもこの仕事には、近代化という大きな手の指間から、ぽろりと抜け落ちてしまったようなところに成り立っている気がする。
「きれいな」「美しい」近代生活が遠ざけてきた土っぽさが残っている気がする。
私は茅葺きという仕事に魅入られていた。
屋根の上でひょいひょいと茅を担いで登っていく職人さんたちの動き、茅を並べてゆく職人さんたちの指、ハサミをかけて仕上げてゆく職人の姿をみて、
この動きこそ「歴史化された身体」だと思った。
黄金色に輝く葺きたての屋根をトラックの荷台からみたあの風景は5年経ったいまでも忘れられない。
わたしはそれをみてこれぞ「身体化された歴史」に出会ったと興奮した。
私にとってすべてが新鮮で、すべてが興味深く、日本でもこのような仕事が残っているのかと感嘆した。
しかし、驚いたのは、みると職人は若い方ばかりではないか。
職人とは難しい顔をして皺だらけのおじいちゃんだと想像していた。
塩澤さんは冗談まじりでいう。「いま関西の茅葺き職人は中卒から脱サラまでいるんだよ。」
職人などそれこそ中卒からその道ひとすじ何十年かけて一人前になるものだと思い込んでいたし、私のように26才ではもう始めるのに遅いと思っていたのだ。
塩澤さんは続けて言う。
「茅葺きの仕事を続けたいならば、京都に山田さんという親方がいるよ。」
そう私がその後弟子入りした親方であり、山城萱葺屋根工事(現:山城萱葺株式会社)の代表だ。
神戸市北区の茅葺き工事が終了し、修士論文の審査に無事通過すると、こんどは早速山田さんに連絡をとり、3月から仕事をさせてもらうことを了承していただいた。
このときは勢い任せである。
茅葺きの仕事を選ぶという決意を周囲に伝えると、お世話になった指導教官は、「よい修士論文を書いたのになぜ?」と理解不能の顔であったし、
両親に至っては、母親は絶叫、父親は絶句という有様であった。
しかし、もうこの道に入ると決めたのだ。
私がエチオピアで抱いた想いを叶えてくれる仕事だと直感したからだである。
卒業式の日にも顔を出さずに茅葺きの仕事をしていた。
周囲の方から「なぜ茅葺きなの?」と聞かれることが多々ある。
私は「素晴らしい仕事に出会ってしまったから」と答えることにしている。
一言で表すにはそれしかない。
後年父親はこう振り返った。
「こどもの仕事と嫁さんだけは親は選べないよな。」私と茅葺きの出会いはこのように凝縮した時間のなかで始まったのである。