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エッセイ:エチオピア4

アムハラ語「バハル」は示唆に富んでいる。

文化=歴史を一単語「バハル」で表すのである。

つまり、文化という地理的な広がりは、歴史という時間的な積み重なりそのままであるということである。

とある地域の歴史をたどることは、そこの文化そのものを表象するということである。

まさにシェコの村で出会った「身体化された歴史」=「歴史化された身体」とは「バハル」に他ならないものだった。
しかし、それもこれまでだ。

歴史=文化「バハル」でありうることはこれまでだ。

きっと近い将来、シェコの人々も草葺き屋根の草がなくても生きていけるようになる。

なぜなら、彼らは知り始めている。

小さく流れるノイズだらけのラジオから、向こうには近代化された「きらびやかで」「はなやかな」自分たちとは「違う」生活があると。

私の口から、人口1000万人のビル群が立ち並ぶ東京という巨大都市があるということを。

そしてなによりも、彼らはすでに欲し始めているのである。
「わたしだってソファに座ってアイスクリームというものを食べながらテレビのチャンネルを変えてみたいわ」

どこでそんなことを知ったのかわからないが、17才の少女は屈託のない笑顔でこう話した。
彼らはすでに外に出たがっているのだ。

「僕はどんなに働いたって日本に行けないことはわかっている。いつの日か、医者になってこの村の病人を救いたい。でも学校で勉強するお金もない。」

15才の少年は市場で手に入れたボロボロの教科書をめくってつぶやく。
私は、シェコの村で根太い文化=歴史を体験して興奮し、世界の片隅で「純粋な」文化が残っていたことに感激した。

だが一方で世界経済の足音がもうそこまできていることに愕然とした。

そして何よりシェコの人々が世界経済に組み込まれることを欲し、「豊か」になりたいと分かって愕然とした。

そう、知ってしまうことは欲してしまうことなのだ。
文化人類学は50年で消滅するといわれている。

それはグローバリゼーションの完了と期を同じくする。

近代国家でゆらぐ政治や政策に、民族の知恵が光を投げかけてくれると信じた文化人類学は、実は皮肉にも文化的差異を次々に露わにするだけで、

資本主義に拍車をかけるだけなのではないか、と思うようになった。
わたしは帰国後思い悩んだ。

このまま文化人類学を続けてよいのだろうか。

博士課程にすすみ、大学に残る・・・。

シェコの村に向かった初日の危機を救ったアドマスとタッカの森の民族的生態知識、マムシの華麗なナイフ捌き、数ヶ月にわたって住んだ草葺き屋根からの風景。

エチオピアでの景色が去来する中、私は自分でも、身体を使って何か技術を獲得してみたいと思うようになる。

身体の中に何世代もの歴史が重なったシェコの人々のように、私も何か文化や歴史というものを、身体を通して表現できることはできないだろうか?と思うようになる。

いやあのアドマスやマムシ少年の「歴史化された身体」に憧れを抱くようになったのだ。

自分もそうなりたいと思うようになった。

同時に、わたしはシェコの村で見て、聞いて、体験したが、自分では何もできなかったと感じたのだ。

無力感に悩まされたのだ。

論文を書いて、本とパソコンと格闘する日々が続く。

私はついに自分の進むべき道を大学の外に模索し始めていた。
同時に、帰国後日本の「バハル」を考え意識するようになった。

この国では、何が「伝統」で何が「文化」なのかさっぱり分からなくなってしまった。

絶対的な価値観などとうの昔に崩壊し、「純粋な日本」など語ることは幻想だよと冷笑されるのがオチであり、「すべてが別様であり得る」社会、

「すべてがそれなりに正しい」社会に暮らすことになった。

人によって意味が違うのは当たり前、世代によって価値が違うのは当たり前、そうした「意味論的カタストロフ」が現代である。

そんな日本だからこそ、いちどシェコの村で「バハル」(歴史=文化=伝統)と出会ってしまった私は、どこかでいまだ息吹くに「日本のバハル」に関わりたいと思ったのだ。

無意識にも、帰国後の生活の中で「日本のバハル」探しをしていた。

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職人が綴ったコラム

かつて山城萱葺で働いていた職人が、茅葺きの難しさとおもしろさ、現場での苦悩や発見をコラムとして綴ってくれました。なかなか言葉で語られることのない茅葺きの世界。ご興味のある方は、のぞいていただければと思います。

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