エッセイ4 野生の「しなり」10
だがしかしいま、一方で、この設計図に表象されるような合理的な原理をもとに突き進んできた近代というプログラムが行き詰まっていることが明白になりつつある。
結局、近代のプログラムというのは過去の伝統とのつながりを断ち切ろうとする運動であった。
いま自分たちの作っている世界は、過去の遺産の上に成り立っているという事実を否定して、合理的な原理だけで人間の世界をつくってみせようとしてきた。
だから、明白な未来へのヴィジョンが見えないまま漂流を続けているような不安感が感じられるのである。
断ち切ったのは歴史だけではない。
それまで頼って生きていた周辺の自然環境とも関係を断ち切り、地域社会との関係も断ち切り、そこを更地にして、造成してそこに新しい御殿をたてるのである。
こうして共同体も崩壊していく。
地域というものが希薄になっていく。
ついには隣人との関係もたちきる。
こうしたぶつ切りの、ちぐはぐした人間の関係が、不安感をよけいに助長させる。
それでも国家という合理的な目的のもと、ぶつ切りの関係性が力ずくで社会に召し抱えられているのだとしたら、あちらこちらで軋みや歪みが生まれて当然である。
人間には本来こころのなかに矛盾や非対称性を抱えて生きているはずである。
いまのところ、こうした人間の心の矛盾を包み込んで成り立つような社会は到来していない。
もし一縷の望みを託すならば、「矛盾を飲み込んで全体を照らす」という「野生の思考」に何かしらのヒントがあるように思われるのだ。
そう。人と生態がブツ切りという現在の関係では「野生の思考」は生まれ得ない。
「野生の思考」は、私たちと環境や生態が「自然な関係」結んでいるということが必要であり、この関係が実は最も幸福なのであるということを教えてくれる。
「日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番よいと語り伝えてきた。
機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。
場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。
その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の主題である。」(2)
(2)隈研吾「自然な建築」岩波新書 p15