エッセイ8「タマとオクタマその2」12
だがしかし、同時に村人同士の連帯も薄れることになる。
農業の経営が村単位から、個々の家単位でなされるようになると、その労働力は無償交換されることなくお金で支払われるようになっていく。
茅葺き屋根が「職人」として独立し、「屋根屋」として遠方から呼ばれるようになっていくのも、養蚕農家が力をもったことの背景があげられる。
北関東の山間や、甲府盆地、信州などの村落においては、養蚕が興隆した結果、「ゆい」や「もやい」といった無償労働交換ははやくから廃れ、
かわりに会津や越後といった雪国の渡りの屋根屋に茅葺き屋根の補修を頼み、それぞれの家で懇意にしている屋根屋を抱えて、
この地方に会津流、越後流が定着していくことになるのである。
いずれ詳述したいと思っているのだが、村落内の農民たちの仕事であった茅葺きが、「茅葺き職人」のように屋根屋として独立し、
やがて現在のように茅葺き屋根の「業者」となっていく一連の流れの中で、屋根屋が「職業」として成立するその萌芽が明治初期から
中期のこのころに求められる気がするのである。
(今和次郎「民家論」p231−250参照、川島宙次「民家は生きていた」p51−60参照)