エッセイ8「タマとオクタマその2」10
全国的な農村部における養蚕の普及とともに、中国に劣らない上質な生糸が生産される様になり、幕府はこの頃から鎖国に転じて、
生糸は主要な輸出品にまで登りつめ、それは農村部の茅葺き民家が支えていたのであった。
続いて、明治時代に入ると、上記の「養蚕新論」(明治5年)、「養蚕実験説」(明治32年)などに記される様に、養蚕のために積極的に
家屋を改造することが奨励されるようになる。
この時代は「温暖育」と呼ばれ、蚕の成長におうじて、稚蚕のときは、密閉した室内において飼育し、春蚕になると保温と適度な湿度、
とくに夏期には冷涼な空気が必要であり、蚕の成長に応じて屋根裏をいくつかの部屋に分けて、桑の葉の無駄をなくし、効率的に蚕を
飼育することができ、また蚕の成長をコントロールできるようになってきた。
壮年期における蚕は、特に通風を必要とするので、棟を開けて櫓(やぐら)をもうけて通気口をとったり、平面の真ん中に大きな通気窓を
もうけたりなどと、明治時代に入ると、入母屋形式をさらに改造するようになる。
茅葺き民家の形式をもっとも変化させたのはこの「温暖育」時代であり、現在文化財や伝建地区などに保存されている茅葺き民家の多くは
養蚕と密接に関連して改築された形式といえよう。
富岡製糸工場が誕生したのも、養蚕が特にさかんであった北関東、信州などと無関係でない。
それぞれの農家で行っていた糸繰りでは太さが一様でなく、国際規格にあわせるために、明治5年に初の官営工場として設立された。
以後、繭の生産を農家が担い、製糸を工場で行うという分業化が決定的になり、農家は繭の増産にのみ意識を集中させることができるようになった。
こうして、大正末頃から「条桑育」という飼育方法が広まり、母屋と独立して、養蚕だけのための小屋を敷地内にもうけて、時には二階建ての
住居まがいの養蚕小屋もたてるものも現れた。
別名「棚飼い」とも呼ばれ、温暖育よりさらに蚕の飼育をコントロールしやすくなり、給桑回数も減った。
その結果、数万頭の蚕の生育度合を調整して同じタイミングで上蔟(じょうぞく:蚕が繭を作り出すこと)させるなど、
日本の養蚕から特筆されるべき技術・知恵が生み出された。