エッセイ8「タマとオクタマその2」7

・杉林の形成

 宮本常一によれば、桧原村の北に位置する青梅市は室町時代から林業地として栄え、杉の植林が早くから進められていたようである。

多摩川の上流に位置する青梅市は、江戸時代になるとさらに林業地として栄え、さかんに杉を育成して伐採し、筏にのって多摩川を

川崎の河口まで五日かけて丸太を流していたらしい。

 

 しかし、元来関東以西の森林といえば、大部分の山はナラ、ブナをはじめ、ケヤキ、クヌギ、シイなど背の比較的低い広葉樹林帯であり、

秋にはドングリが沢山落ちて、冬には落葉して落ち葉が地面を埋め尽くすような雑木林であったはずである。

山の民は、焼き畑を行い、雑穀を栽培し、山から木を切ってきて炭焼きを行い木炭として売ったり、落ち葉を集めて堆肥をつくって、生業としていた。

奥多摩の方まで杉の植林がさかんになったのは、おそらく実は戦後だと推定される。

大正時代、当時の東京市の行政主導で、水源涵養林として青梅の奥に杉の植林がすすめられていたが、昭和25年に造林臨時措置法が施工され、

杉の植林に対して補助金が出されることになると、奥多摩でも造林熱が高まっていった。

高度成長期の住宅建築ラッシュを背後から支えていたのは、こうした山村民たちの造林業に負う所が大きく、奥多摩だけでなく全国的な現象であった。

これまで山の持ち主は、炭焼き売りに雑木を売る程度であったのに、住宅建材としての杉は、3倍以上の利潤を得て、トラック輸送が発達すると、その熱に拍車がかかっていった。

(宮本常一「私の日本地図10巻武蔵野・青梅」p100〜102参照)