エッセイ7「タマとオクタマその1」13

 筑波地方と武蔵野大地は江戸時代の食料供給地であり、いわゆる豪農や庄屋クラスの本百姓が数多く存在した。

そして、その2地域には茅葺き民家が数多く残されることになる。

宅地の大きさはおおよそ一反(1000平米)で、母屋はおよそ30坪(100平米弱)クラスであった。

 

 広い台地に田畑を形成し、その間をぽつんぽつんと茅葺き民家が点在していたのである。

しかし、それは次第に時代とともに変わっていく。

 「大正年間から農村は急速に都市化に飲まれ、横浜、川崎などの多摩丘陵血でも、草屋根が減少した。」(「芝棟」亘理俊次p23)

 そのプロセスは以下のようなものである。

私鉄が東京西部に延伸されると、交通機関の便をたよって付近に工場が建てられる。

地方から移住するもの、都心から郊外に移住するものが増加し、それとともに住宅が必要になってくる。

1000平米もの広い屋敷地の中に、自分の前の庭を半分裂いて、防風林として植えたケヤキを切って貸家をたてる。

純農夫が急に家主さんになるのである。(今和次郎「民家論2」p190参照)

 

 私鉄の延伸から遠くは慣れた例えば保谷などでは、昭和18年の頃、「保谷一帯では全くの農村地帯であった。農家の大半が草葺きであり、

東の練馬まではゆるやかに丘の起伏しているところが多く、その所々に林があり、林の中に家があった。家の隅には申し合わせた様に屋敷神があり、

前庭は広くて物干し場になっていた。前庭いっぱい筵をしいて麦の干してあるところもあった。」(宮本常一「私の日本地図10巻武蔵野・青梅」p236)

などと、まだ武蔵野の面影を残している所もあった。