エッセイ8「タマとオクタマその2」9

 いっぽうで、武蔵野の民家に比べて、なぜかくも奥多摩の民家は巨大なのであろうか。

サイズに関して言えば、県をまたいで甲府盆地まで下りてゆくと再び民家のサイズは小さくなっていく。

屋根を葺く材料は時代とともに変化するとしても、民家の大きさはたとえ増改築をしたとしても、倍以上になる説明がつかない。

杉の植林ブームがやってくる遥か以前から巨大な民家が存在していたことになり、炭焼きや、焼き畑に頼るだけの生業では、

巨大な民家を建てることはできないであろう。

 

 このことは、江戸時代から戦後まで、日本中の山村でさかんに行われた「養蚕業」との関係性が、文献を通して明らかになってきたのである。

そして、屋根の形は、地域とともに発達してきたように感じていたのだが、実は「生きる」という最もシビアな宿題をこなすために、

人々は屋根の形を巧みに変化させてきたのだと目から鱗が落ちる思いをするのであった。

 

 

・養蚕と茅葺き民家

 養蚕。

蚕を飼育して、生糸の原料となる繭を売って現金収入とする。

田舎の農家にとって、養蚕は現金収入の手だてとして、江戸時代から明治時代まで全国の農村に普及していった。

養蚕は弥生時代に渡来人とともに、日本にもたらされ、奈良時代に全国的に普及していった。

しかし、品質は中国の絹に劣り、江戸時代まで中国からの輸入が続いたという。

代金としての金銀銅の流失を懸念した江戸幕府は、諸藩とともに農村における養蚕を殖産興業としてその普及を促した。

18世紀前半東北の農家から普及がはじまり、19世紀前半には全国の農村に普及していた。

「蚕飼養法記」(1702)、「蚕養育手鑑」(1712)、「新選養蚕秘伝」(1757)、「養蚕秘録3巻」(1803)、「養蚕新論」(1872)など、

江戸中期から明治前期にかけて、何冊もの養蚕手引書が発刊され、3つの段階を経て養蚕方法が順次改良されていった。

江戸中期にまず清涼育といって、従来、茅置き場や物置きであった農家の屋根裏を養蚕のためのスペースにあてがわれる様になる。

蚕をたくさん飼育するためには、屋根裏の空間をできるだけ多く取った方がよい。

さらに、蚕は湿気と高温に晒されると衰弱する傾向にあるため、風通しや、採光のために大きな破風を備える必要が出てくる。

そのため寄せ棟であった農家は、養蚕のために大規模な入母屋に改築していく。

そして、蚕の飼料である桑の葉を育てるために、広大な桑畑が形成される。

北関東や、奥多摩、甲府盆地などに点在する大規模な入母屋作りの茅葺き民家はこの頃成立し、民家の形式からも養蚕の普及していった

足跡を辿ることが出来る。

しかし、江戸時代中期はまだ分業化が進んでおらず、採集した繭からたいていは自分の家で糸をくり、機を織り、織物を町や市場に売りにいった。

自分たちで織った着物を着るのが当たり前の時代であった。