エッセイ8「タマとオクタマその2」15

茅葺きの地域性、屋根形式の地方性などいわれるが、私は当初、伝統=動かし難い構造のような先入観があり、何百年もの間変わることなく

そこに留まっているようなイメージがあった。

同じ様に、白川郷の集落も何百年と同じ姿でいたと思っていた。

まことしやかに、山間部の茅葺き屋根は豪雪を早く下に流すために屋根勾配がキツいんだとも説明されて生きた。

しかし、こうして生産力の低い山間部の集落の中で、養蚕という農民たちの貴重な稼ぎの手だてを通してみて見ると、

「生きる」「かせぐ」「やしなう」という美意識とは対極に位置する根本的な狂おしい生命活動が息づいているのだと考え直すようになった。

北関東の養蚕農家が、富岡製糸工場という世界経済と直結し、「ゆい」や「もやい」に頼ることなく自立した事例に比べると、

世界経済と地理的に結びつきが弱かった白川郷や、それ以外の関西以西の山間部の集落では、「ゆい」が戦後も持続していたことの事実を鑑みると、

むしろ「ゆい」が集落維持のためになくてはならない重要な装置であったことを物語っているようである。

現在、桑畑は完全に姿を消し、養蚕であった3階、4階の居室は民宿などにあてがわれて、世界遺産となってから増加した観光客を吸収する場として、

再び改良されている。(今和次郎「民家論2」p382−387、川島宙次「民家は生きていた」p177−179参照)

 

 再び関東に目を転じてみると、養蚕によって江戸の中期から明治の初期にかけて茅葺き民家の改造が行われていることは注目に値する。

群馬県の赤城山六では、寄せ棟造りの茅葺きに屋根裏の明かり取りの必要性から大間の全面を大きく切り取っている。

切り取った所に、杉皮などで下屋としての庇を設けている。

また、養蚕の盛んであった甲州では江戸初期から確認されている切り妻の茅葺き民家が甲府盆地東部から北西部にまで流布していて、

櫓造りと呼ばれる棟の真ん中三分の1を突き上げて養蚕室に改造した他、入母屋は、棟の真ん中に巨大な煙出をつけたり、

また寄せ棟は小間を屋根裏通風と採光のために切り上げて甲造り(かぶとづくり)としたり、江戸時代中期から、後期にかけて様々な形に

改築された茅葺き屋根の形を見ることができる。

そして甲州西部、奥多摩にいたる山間部では、巨大な破風をもった入母屋を多数確認できる。