エッセイ8「タマとオクタマその2」14

・白川郷の茅葺き民家の巨大化

 裏付ける様に、現在世界遺産として脚光を浴びる岐阜県の白川郷も実は養蚕と密接に関連している。

「飛騨国中案内」(1764)によると、白川郷の民家はクレ板葺きと描かれている。

クレ板とは年輪に沿って削いだ板で、近世において民家のもっとも簡易的に葺ける屋根として全国に普及していた。

しかし、クレ板葺きでは板が落下してしまうため、急勾配の屋根を創ることはできない。

せいぜい3寸勾配(18°前後)である。

現在多くの観光客を感嘆させているあの荘厳な切り妻の茅葺き屋根は一体いつ生まれたのであろう。

生産力の低い谷間の集落では、焼き畑が主な生業であった。

家族を養うための現金収入手段として、江戸時代中期より、ようやく養蚕業が全国的な例とともにこの地でも普及していく。

すると平行する様に、人口増加し、江戸時代中期から家族が大規模化し、強力な家父長制度のもと、1世帯あたり15〜20人の家族、

明治32年には平均26人の家族に増大していくのである。

しかし、増加する人口のはけ口となる分家をつくろうにも土地がない白川郷では、家を大規模するしかない。

大工に頼らず農民たちだけで建てられる屋根という条件、そして大家族が暮らす生活空間、さらに大家族を養うための養蚕が行える

巨大な屋根裏空間の必要性、そして主な生業であった焼き畑のさらなる増大と、焼き畑のあとに大量に自生する茅、こうした条件が揃って

あの急峻な茅葺の切り妻が生まれていくのである。

こうして白川郷集落で大規模な急峻な切り妻が出揃うのは、1世帯あたりの平均人口がもっとも増加する明治30年前後だと推定されるのである。